尾去沢鉱山は、和銅元年(西暦708年)に発見されたと伝えられている。1300年を超える歴史を持つことになる。当時の東北地方には、大和朝廷の支配が完全には及んでいなかった。蝦夷と言われる北方系の勢力と、大和側の人間が混在して住んでいた。和銅2年(西暦709年)に巨勢麻呂という人が陸奥鎮東将軍に任じられている。後の征夷代将軍の祖となる職である。ちなみに、かの有名な坂上田村麻呂が征夷代将軍となったのは、西暦797年のことである。このことから、和銅元年という切りの良さは、朝廷側の都合で決めたのではないかと思っている。少なくとも、奈良の大仏建立時には、尾去沢鉱山の金が献上された記録が残っている。朝廷側が鉱山の存在を知っていて勢力に収めようとしたのか、制定する過程のなかで鉱山を発見したのか、どちらかだと想像している。
その後の尾去沢鉱山は、奥州藤原氏の黄金文化を支えたとか、豊臣秀吉の検地を受けたとか、色々な歴史があるが、その詳細な記録文書は江戸期以降のものしかないという。時の権力者の「打出の小槌」ともいえる存在だったのだろう。明治以降は銅山として「東洋一」の規模を誇り、第二次世界大戦中には4千人以上の従業員を導入、月産10万トンの規模で軍需産業を支えた。そして昭和53年閉山。閉山後も鉱山から発生する排水を処理するプラントが稼働し続けている。
尾去沢鉱山の一部坑道は、「史跡・尾去沢鉱山」として観光公開されている。写真は非公開の廃鉱部分である。この廃坑をバスで見学する特別コースがあるのだが(月1回、事前予約)、いまはコロナ禍で受け付けていないようだ。いつか見学してみたい。半ば山に飲み込まれつつある鉱山に、そんな壮大な歴史があるなんて夢幻のように思える。
X-PRO3 / XF16-80mmF4 R OIS WR
先の鹿角市紀行もそうでしたが、改めてロクさんのブログを通じて、東北地方の「かつてあった道」を追体験しています。
どんな街や場所にも、その当時のストーリーがあって、その積み重ねで今があることへの感謝する気持ち。
そのストーリーに思いを馳せたり、もっと知りたいと調べたり学んだりする過程で、自らをアップデートしたり、引き出しを増やしていく試み。
何れも、このご時世を打開するカードとなる。
そのようなことを今回、考えた次第です!
東北の市町村コンプリートが終わったら、あとはもう政治出馬するしかないと思っています。というのは全くの嘘ですが、結果として色々な想いが出てくるのも事実です。
何かを感じて頂く契機になれば嬉しいし、そのためにも僕は愚直に撮り続けたいと思います。