家族で栃木県黒羽町の大雄寺(だいおうじ)にお墓参りにいくときに、栃木県黒羽町立黒羽小学校の前を通る。で 写真はそのとき見つけた二宮尊徳像。この学校の校門といい、校舎といい、昔の「学びの庭」って感じですごくいい。
ちょうど読んでいた文庫本「稲盛和夫の哲学」(PHP文庫)の中に「勤勉について」という章があり、そこで二宮尊徳が紹介されている。以下、その部分の転載。すごく参考になると思う。
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二宮尊徳は学問も資産もない、一介の農民でしかありませんでした。十六歳のときに両親を失い、伯父さんの家に預けられた尊徳は、朝早くから夜遅くまで小作人として働きます。灯明をともして勉強していたのですが、伯父さんから油がもったいないと怒られ勉強ができない状態になります。それでも尊徳は、朝は朝星、夜は夜星を仰ぐまで田畑で働きとおし、その間、干し草や薪をとりに山に行く道すがら勉強を続けました。
やがて大人になった尊徳は、不断の努力と倹約によって両親の家や田畑を買い戻し、素晴らしい農業を実践するようになります。その評判を聞きつけた領主の依頼に応じて、貧しい村を次から次へと再興していきます。声価は日増しに高まり、ついには晩年、徳川幕府の治水工事や復興事業を任されるようになりました。その二宮尊徳が、並み居る大名諸侯にまじって殿中に上がったとき、その立ち居振舞い、物腰、言葉遣いは、どこの高貴な生まれかと思わせるほど礼儀正しく、素晴らしいものだったといいます。
この労働を通じて「人間の心をつくる」というのは、現在の日本人にはとりわけ重要なことだと思います。現在のように豊かになって生きる糧を得るために働く必要がなくなると、勤勉でなくてもよいわけです。親のスネかじりでも生きていけますので、高校を卒業しても就職もしない若者が大勢出てくるのです。働くのは罪悪だと教える学校の教師がときにいることも問題ですが、厚生労働省などが労働時間の短縮を目指していることも問題です。人間をたんなるモノと捉えるから、そういう論理になるのかもしれません。働くことの目的を、生きる糧を得ることにとどめず、人間の心をつくるためであるとしてもよいはずなのです。
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すごく共感する。自分ももっとやらないと。まだまだ心ができてない。
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小学校には「二宮尊徳」の銅像が必ずといっていいほどありますよね。なぜあんなにちっちゃいのか、子供だから?いえ、小学生にあることを教えるためのサイズだったんですって。そう、1m・・・どこの学校に立っているどの二宮尊徳の銅像はどれも1mなんですって。
1mの感覚を教えるためのものでもあるんですって。
さすが『勤勉』を意味する方・・・
私も“学び”の心を死ぬまで持ち続ける人でありたいと思っております。
としたかさん、お勧めの本「遺伝子オンで生きる」毎日かならずページをめくるようにはしていますが・・・^^;
今日の幸せ5項目は、お気に入りのノートを作ってちゃんと遂行しておりまぁーす。
そう言われてみれば1mくらいだったなぁ。
そういう意味もあるんだねぇ。