帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの枕草子(拾遺二十三)松の木立高き所の

2012-03-05 00:12:15 | 古典

  



                     帯とけの枕草子(拾遺二十三)松の木立高き所の


 言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで、この時代の人々と全く異なる言語感で読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」だけである。心におかしきところ」を紐解きましょう。帯はおのずから解ける。


清少納言枕草子(拾遺二十三)松の木だちたかき所の

 
松の木だちたかき所(女の身分貴い人の住む所)の、東と南の格子を上げひろげているので、涼しそうに透けて見える母屋に、四尺の几帳を立てて、その前に円座(敷物)を置いて、四十歳ばかりの僧が、とっても清げな墨染の衣、薄物の袈裟、新しい装束して、香染の扇を使い、懸命に陀羅尼を読んでいる。
 
(女主人は)ものの怪にひどく悩んでいるので、移すべき人ということで、おほきやかなるわらは(童髪した大人の女)が、生絹の単衣、真新しい袴を長く着こなしていざり出て、横向きに立ててある几帳の、正面に居たので、僧は外に身を捻り、(童髪の女に)向いて、とっても目立つ美しい独鈷(修法に用いる具)を持たせて、さっと拝んで唱える陀羅尼も尊い。
 見定めの女房多数、より添って居て、じっと見守っている。間もなく(物の怪が几帳の奥の女主人から)震え出でたので、苦しむ心が失せて、修法の行いどおりに(身代わりの童髪の女は)従っておられる。仏の御心もたいそう尊いとみえる。
(女主人の)兄弟、いとこなども皆、(母屋の)内と外にいる。尊く思って集まっているので、(童髪の女は)いつもの通りの心ならば、どれほど気後れした様子で惑うでしょう。自らは苦しくないことと知りながら、ものの怪を移されて、たいそうわびしく泣いている様子が心苦しくて、憑き人の知り人(童髪の女の同僚)たちは、いたわりたく思って、間近に居て衣の乱れを直したりしている。
 
そうするうちに、よろしとて(よろしいということで)、(見証の女房が)「御湯」などと言う。北面の部屋に取り継ぐ。若い女房たちは、あぶなかしいようすで、(御湯を)ひっ提げながら、いそいで来て様子を見つめていることよ。単衣などもたいそうきれいで、薄色の裳など萎えかかってはいない、清げである。
 
(僧は物の怪に)多くの言い訳を言わせて許した。(童髪の女)「几帳の内に居るものと思っていたのに、おどろいたことに丸見えになるまで出てしまったよ。何があったのかしら」と恥ずかしくて、額に髪を振りかけて、几帳の内にすべり入れば、「しばし(しばらく・お待ちを)」といって、僧は修法を少しして、「いかにぞや、さわやかになりたまひたるや(いかがですか、さわやかになられていますか)」と言って、(童髪の女に)ほほ笑みかけているのも、すばらしくて気が引けるほどである。

 「あとしばらく控えているべきですが、時の頃になりましたので」などと、僧が退出を申し出れば、「しばし」と留めるけれど、たいそう急いで帰るところに、上臈(身分上位の女房)とおぼしき人、簾のもとにいざり出て、「とっても快くお立ち寄りくださいました。霊験によって、(私どもの主人が)耐え難く思っておられましたのを、只今をこたりたるやうに侍れば(ただ今よくなったようでございますれば)、返す返す喜びを申しあげます。あすも御いとまのひまには物せさせ給へ(明日もお暇の暇にはいらしてくださいませ)」と言っている。「ひどい執念の御物の怪でございますようで、気を緩められませんようにさなるべきです。よろしう物せさせ給なるをよろこび申侍(よろしゅうおなりになられたのをお喜び申します)」と言葉すくなに(僧が)退出する間、たいそう霊験があって、仏が現れておられると思える。

 
言の戯れ言の心
 「松…待つ…女」「たかき…高き…貴き(女房の数から女主人の身分の高さが察せられる)」「おほきやかなるわらは…大柄の童…童髪した大人の女(この法師の許にはこのような男女が数人居る)」「けその女ばうあまた…見証の女房多数…見定役の女房多数…女主人の様子見守る女たち大勢」「よろしくて…好ましいご様子なので…悪くはないご様子なので」「只今をこたりたるやうに侍れば…わずかに今(病が)快方に向かったようでございますれば…たった今(病は)全快のようでございますれば」「よろしう物せさせ給なる…普通のご様子に御成りになられている…快方に向かわれている」。


 
ここで行われた事や言動は型通りのこと。「物の怪を移された女自らは苦しくないことと知りながら、ひどく泣く心苦しそうな様子を気遣い乱れた衣をひき繕う人たち」「物の怪出でた童髪の女に、敬語を使って労わりの言葉をかけ微笑む僧」「明日もお暇の暇には訪れてくださいという女房」など、型通りの儀礼の言動のようにみえる。  
 このような言動に命が吹きこまれるのは、女主人に本来の魂が蘇ったときである。それは僧が「よろしう物せさせ給なるをよろこび申侍」といい退出する間、「いとしるしありて、仏のあらはれたまへる」と思える時で、「清げな姿」に魂が宿り、虚々なる事は現実となり、儀礼の言葉には切実な感情がこもる。

 
歌の「清げな姿」と「深き心」に、「心におかしきところ」が添えられてあるのを感じた時、歌に命が漲るのに似ている。

 伝授 清原のおうな
 
聞書 かき人知らず (2015・10月、改定しました)

 原文は、岩波書店 新 日本古典文学大系 枕草子による。