■■■■■
帯とけの新撰和歌集
紀貫之 新撰和歌集 巻第一 春秋 百二十首(十一と十二)
ときはなる松のみどりも春くれば いまひとしほの色まさりけり
(十一)
(常盤なる松の緑も、春来れば、いまひと染めの色彩、増したことよ……久に変わらぬ女の色も、はる繰れば、いま一しおの色情まさったことよ)
言の戯れと言の心
「ときはなる…常盤なる…常緑の…久に変わらぬ」「まつ…松…待つ…女」「みどり…緑…色彩の名…若々しい色…見とり」「み…見…覯…媾…まぐあい」「はる…春…春情…張る」「くれば…来れば…繰れば…繰り返せば」「ひとしほ…一入…一染め…一肢お…一おとこ」「色…色彩…色艶…色情」。
もみぢせぬときはの山は吹く風の 音にや秋をきゝわたるらむ
(十二)
(紅葉しない常盤の山は、吹く風の音に、秋を聞きつづけているのだろうか……飽きの色みせない常盤の山ばは、吹く心風の音に、我が飽きをきき及んでいるのだろうか)。
「もみぢ…秋色…飽色…も見じ…もう見ない」「見…覯…媾…まぐあい」「やま…山…山ば「風…心に吹く風…飽風…厭風」「あき…季節の秋…飽き…厭き」「ききわたる…聞き続けている…聞き及んでいる…効いている」。
春歌の「清げな姿」は、常緑樹の松の緑の一段と鮮やかな景色。「心におかしきところ」は、常盤なる女の色情のはるくるありさま。
対する秋歌の「清げな姿」は、紅葉せぬ山に秋風吹く風景。「心におかしきところ」は、飽きに色づかない山ばで、ゆきわずらうおとこのありさま。
歌は「花実相兼」である。歌の生々しい情は「玄之又玄」の奥にある。古今の歌は「歌の様を知り言の心を心得た人には恋しくなる」。このように聞けば、貫之の言葉に実感がこもるでしょう。
伝授 清原のおうな
鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。
聞書 かき人しらず