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帯とけの新撰和歌集
紀貫之 新撰和歌集 巻第一 春秋 百二十首 (七と八)
とふ人もなきやどなれどくる春は 八重むぐらにもさはらざりけり
(七)
(訪う人もない家だけれど、来る季節の春は、門の八重葎にも、さし障らなかったことよ……訪う人もない屋門だけどやはり、暮る春、果てる張るは、かどの八重むぐらにも、触れないことよ)。
言の戯れ、貫之の言う「言の心」
「やど…宿…女…やと」「や…屋…女」「と…門…女」「ど…けれども…だけど(やはり)」「くるはる…来る春…暮る春…晩春…春情の果て…張る物の果て」「はる…春…張る…張るもの…おとこ」「やへむぐら…八重葎…生い茂る雑草…荒廃したさま…井辺のくさむら」「さわらざりけり…差し障らないことよ…触らないことよ…触れもしないことよ」。
をぎの葉のそよぐおとこそ秋風の 人にしらるゝはじめなりけり
(八)
(荻の葉のそよぐ音こそ、秋風が、人々に知られる、初めだったなあ……お木の端の揺らぐおとこぞ、わが厭き風が、女に感知される初めだったなあ)。
「をぎ…すすき(薄)に似た草…お木…男…薄(薄情)なもの」「そよぐ…揺れる…頼りない様になる」「おとこそ…音こそ…おとこぞ」「秋風…飽風…厭風」「風…心に吹く風」「人…人々…女」「しらるる…知られる…(季節の訪れなど)感じられる…(厭き来たかと)気付かれる」。
見(覯)捨て去るおとこを嘆息する女の艶情、対するは、密かにものの厭きを迎え嘆息する男の艶情。この煩悩ゆえの嘆息に、時には、人間の奥深い心が顕れる。
これらこそ、「人の心の種」が言葉になったものに違いないでしょう。「やまと歌は、人の心を種としてよろづの言の葉と成れりける」という古今集仮名序冒頭の言葉の意味がよみがえるでしょう。
伝授 清原のおうな
鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。
聞書 かき人しらず