■■■■■
帯とけの新撰和歌集
「新撰和歌集」は、紀貫之晩年の秀歌選集である。漢文の序に、およそ次のようなことが記されてある。
醍醐天皇の御時、紀貫之等は、勅撰集の「古今和歌集」一千首の撰進を果たした。後に貫之は、さらに秀れた歌を抽出するように勅命を受け、土佐の守に赴任中、政務の余暇に、ようやく秀歌の選定成ったものの、帝は既に崩御。勅を伝えた中納言の藤原兼輔もまた逝去された。土佐より帰京した日、献上しょうとした「妙辞」は、空しく文箱の中にあり、独り落涙する。(この頃、貫之は六十五歳ぐらいであった)何年か経って、もしも貫之逝去すれば、歌は散逸するだろう。この「絶艶の草」が、またも鄙野の歌に混じってしまうのは恨めしい、故に、来るべき代に伝えようとして公にする。
撰んだ歌は、「花実相兼」なるもののみで、「玄之又玄」である、唯に春霞や秋月を詠んだ歌にあらず、「漸艶流於言泉(言葉の泉に艶流しみる)」ものである。
皆これらを以って、天地、神祇を感動させ、人倫を厚くし、孝敬を成し、上は歌でもって下を風化し、下は歌でもって上を風刺するのである。
今の人々には、貫之の云う「妙辞」「絶艶の草」「花実相兼」「玄之又玄」「漸艶流於言泉」などという言葉を実感として和歌に感じることはできないでしょう。和歌の解釈が中世、近世、現代にかけて長年に亘って間違った方向に進んでしまったためである。
この度の伝授は、貫之の撰した四巻三百六十首の歌に顕れる、性愛にかかわる絶妙な色艶を、君にも実感させ、それに感応せしめることにある。そうすれば、貫之の云ってることが実感できるでしょう。また、現代の間違った解釈とその方法を一掃することができるでしょう。
各々相闘わせるために、春歌と秋歌を並べて配してあるというので、二首づつ聞いてゆくことにする。
紀貫之 新撰和歌集 巻第一 春秋 百二十首 (一と二)
そでひぢてむすびし水のこほれるを 春たつけふのかぜやとくらむ
(一)
(袖濡らし手で掬った水が凍っているのを、春立つ今日の風は溶かすであろうか……身のそで濡らし、ちぎり結んだをみなが、心に春を迎えずこほっているのを、春情たつ京の風は、とかすであろうか)。
言の戯れを知り、貫之のいう「言の心」を心得ましょう。
「そで…袖…端…身のそで」「ひぢて…漬ぢて…浸して…濡らして」「むすぶ…手で掬う…ちぎりを結ぶ」「水…女」「こほる…凍る…未だ心に春を迎えていない…子掘る…まぐあう」「春…季節の春…青春…春の情」「けふ…今日…京…山ばの頂上…感極まったところ」「風…心に吹く風…山ばで吹く風…あらし」「とく…融く…溶く…うち解ける」。
あききぬとめにはさやかに見えねども 風のおとにぞおどろかれぬる
(二)
(秋が来たと、目には明らかに見えないけれど、風の音にぞ、はっと気づかされる……飽き満ち足りたと、女には、明らかに見えないけれど、心風の声にぞ、気付かされ、濡る)。
「あき…季節の秋…飽き…飽き満ち足り…山ばの京」「め…目…女…女の様子」「風…心風…山ばに吹く風…あらし」「音…声」「おどろかれ…びっくりさせられ…はっと気付かされ」「ぬる…ぬ…動作や状態の完了の意を表す…してしまった…寝る…濡る…濡れる」。
初春と初秋の歌が、余情の妖艶さで相闘っている。合点できるかな。
伝授 清原のおうな
鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。
聞書 かき人しらず