帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの小町集 45 こぎきぬや天の風間も

2014-02-05 00:03:10 | 古典

    



               帯とけの小町集



 小町の歌は、清げな姿をしているけれども、紀貫之のいう、歌のさま(歌の表現様式)を知り、言の心(字義以外に孕む意味)を心得て聞けば、悩める美女のエロス(生の本能・性愛)が、「心におかしきところ」として、今の人々の心にも直に伝わるでしょう。



 小町集 45


(
とあるかへし)

 こぎきぬや天の風間も待たずして にくさびかける海人の釣り船

「貴女のそでに溜まらない白玉は、合い見ても飽き足りることのない、をんなの涙だったのだなあ」などと言われた返し、

(漕いで来ないかな、天の風間も待たないで、波除け掛けた海人の釣舟……こいでこないかな、あまの心風の吹く間も待たずに、にくさびかける・合わせて離れないわ、吾間の吊りふ根)


 言の戯れと言の心

「こぎ…漕ぐ…押し分け入り進む」「や…疑いの意を表す…詠嘆の意を表す」「あま…天…海人…女…吾間…をんな」「風間…風の止む間…心風が次吹く間」「にくさび…波を除ける藁製の物の名という…名は戯れる。荷楔、二つのものをつなぎとめる物、離れない、離さないもの、肉楔」「かける…掛ける…(鍵など)懸ける」「あまのつりふね…海人の釣舟…吾間の吊り夫根…をんなの吊り下がった突起物…肉くさびの別の言い方…このような戯れの意味で用いられるのは、古今和歌集の小野篁の歌、及び伊勢物語70の業平作と思われる歌にも有る」。


 小町の歌は「貪欲」を反省などしないで謳歌している。
 


 同じ言葉が用いられてある小野篁朝臣の歌を聞きましょう。古今集 羇旅歌

壱岐国に流されける時に、船に乗りて出で立つとて、京なる人のもとに遣はしける、   

 わたの原やそしまかけて漕ぎでぬと 人にはつげよ海人の釣り舟

 (海原、八十島めざして漕ぎ出たと、流罪に追いやった・京の人に告げよ、海人の釣舟よ……腸の腹、八十のし間かけて、こぎ出たと、女人には告げよ、あ間の吊り夫根よ)。


 言の戯れと言の心

「わたのはら…海原…腸の腹…腹腸」「八十島…(瀬戸内の)多数の島々…多数の肢間…やそ股間」「間…女」「かけて…めざして…かけもちで」「こぎ…こぐ…漕ぐ…分け入りおし進む」「人…人々…あの男たち…女…吊りふねの女主人」「あまのつりふね…海人の釣舟…あ間の吊り夫根…をんなの吊り下がった突起物」。


 この歌を字義通りに聞く「清げな姿」からは、心にしみじみと感じるような内容が伝わらない。

藤原俊成の言うように、歌の言葉は「浮言綺語の戯れに似ている」ものとして、そこに顕れる趣旨を聞けば、流罪に追いやった京の男どもに、自らの腹腸を投げつけたような、絶望した男の最後の歌と聞くことができる。


 

  『群書類従』和歌部、小町集を底本とした。歌の漢字表記と仮名表記は、適宜換えたところがあり、同じではない。



 以下は、歌を恋しいほどのものとして聞くための参考に記す。


 古今集真名序には「彼の時、澆漓(薄ぺらい)歌に変わり、人々は奢淫(おごって・淫らな)歌を貴び、浮詞は雲と興り、艶流れ泉と湧く、歌の実皆落ち、その華独り栄える」とある。彼の時は、小野小町等が歌を詠んだ時代のことである。


 紀貫之は古今集仮名序の結びに、「歌の様を知り、言の心を心得える人」は、古今の歌が恋しくなるだろうと述べた。

歌の様(和歌の表現様式)については、藤原公任に聞く。公任は清少納言、紫式部、和泉式部、藤原道長らと同じ時代を生きた人で、詩歌の達人である。

優れた歌の定義を、『新撰髄脳』に次のようにまとめている。「心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」。歌は一つの言葉で複数の意味が表現されてあることを前提にした定義である。


 貫之と公任の歌論を援用して、歌を紐解いて行けば、隠れていた「心におかしきところ」が顕れる。それは、言いかえれば、エロス(性愛・生の本能)である。もう一つ言いかえれば、「煩悩」である。

藤原俊成は、『古来風躰抄』に次のように述べた。歌の言葉は「浮言綺語の戯れには似たれども、言の深き旨も顕れ、これを縁として仏の道ににも通はさんため、かつは煩悩即ち菩提なるが故に、―略― 今、歌の深き道を申すも、空・仮・中の三諦に似たるによりて、通はして記し申すなり」。

歌の「心におかしきところ」に顕れるのは、煩悩であり、歌に詠まれたそれは、即ち菩提(煩悩を断ち真理を知って得られる境地)であるという。

上のような言語観と歌論を無視して、江戸時代以来、国学と国文学によって、歌集や歌物語の歌の注釈と「清げな姿」と憶測による歌の心の解釈が行われてきたけれども、それらは根本的に間違っている。