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帯とけの小町集
小町の歌は、清げな姿をしているけれども、紀貫之のいう、歌のさま(歌の表現様式)を知り、言の心(字義以外に孕む意味)を心得て聞けば、悩める美女のエロス(生の本能・性愛)が、「心におかしきところ」として、今の人々の心にも直に伝わるでしょう。
小町集 56
四のみこのうせ給へるつとめて風ふくに、
(第四の親王が姿を消された翌朝風吹くときに……或る親王が、出家のため・姿を消された翌朝風吹くときに)、
今朝よりはかなしき宮の秋風や またあふこともあらじと思へば
(今朝よりは、悲しい宮殿の秋風や、また逢うことは、ありはしないと思えば……袈裟よりも、残念な宮様の飽き風よ、また合うこともありはしないと思えば)。
言の戯れと言の心
「うせ給へる…姿を消された…出家入道された…身まかられたのではない」。
歌「四のみこ…第四の親王…仁明天皇の人康親王とすると貞観元年(859)五月出家二十八歳位、山科に住まわれた」「かなしき…哀しき…残念な」「宮…宮殿…お住まい…そこの人」「秋風や…この時五月で夏ながら秋風吹いたか…女達や俗世に厭きた風が心に吹いたか…飽き満ち足りた心風か」「や…疑問を表す」「またあふ…又逢う…股合う」。
同じ詞書きの歌がこれより六首並べられてある。見捨てられた女たちは当然複数いたので、その心の代作もあるだろう。いずれにしても、みまかり給うた哀傷歌ではない。
『群書類従』和歌部、小町集を底本とした。歌の漢字表記と仮名表記は、適宜換えたところがあり、同じではない。
以下は、歌を恋しいほどのものとして聞くための参考に記す。
古今集真名序には「彼の時、澆漓(軽薄な)歌に変わり、人々は奢淫(おごって・淫らな)歌を貴び、浮詞は雲と興り、艶流れ泉と湧く、歌の実皆落ち、その華独り栄える」とある。彼の時は、小野小町等が歌を詠んだ時代のことである。
紀貫之は古今集仮名序の結びに、「歌の様を知り、言の心を心得える人」は、古今の歌が恋しくなるだろうと述べた。
歌の様(和歌の表現様式)については、藤原公任に聞く。公任は清少納言、紫式部、和泉式部、藤原道長らと同じ時代を生きた人で、詩歌の達人である。
優れた歌の定義を、『新撰髄脳』に次のようにまとめている。「心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」。歌は一つの言葉で複数の意味が表現されてあることを前提にした定義である。
貫之と公任の歌論を援用して、歌を紐解いて行けば、隠れていた「心におかしきところ」が顕れる。それは、言いかえれば、エロス(性愛・生の本能)である。もう一つ言いかえれば、「煩悩」である。
藤原俊成は、『古来風躰抄』に次のように述べた。歌の言葉は「浮言綺語の戯れには似たれども、言の深き旨も顕れ、これを縁として仏の道ににも通はさんため、かつは煩悩即ち菩提なるが故に、―略― 今、歌の深き道を申すも、空・仮・中の三諦に似たるによりて、通はして記し申すなり」。
歌の「心におかしきところ」に顕れるのは、煩悩であり、歌に詠まれたそれは、即ち菩提(煩悩を断ち真理を知って得られる境地)であるという。
清少納言の言語観は『枕草子』(3)にある。「同じ言なれども、聞き耳異なるもの、法師の言葉、男の言葉、女の言葉」。同じ言葉でも、聞く耳によって異る『意味に』聞こえるもの、それが我々の言葉であるという。
上のような平安時代の言語観と歌論を無視して、江戸時代以来、国学と国文学によって、歌集や歌物語の歌の注釈と、「清げな姿」のみから憶測する解釈が行われてきたけれども、それらは根本的に間違っている。