帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの小町集 61秋の田のかり庵にきゐる

2014-02-25 00:07:12 | 古典

    



                帯とけの小町集



  小町の歌は、清げな姿をしているけれども、紀貫之のいう、歌のさま(歌の表現様式)を知り、言の心(字義以外に孕む意味)を心得て聞けば、悩める美女のエロス(生の本能・性愛)が、「心におかしきところ」として、今の人々の心にも直に伝わるでしょう。



 小町集 61


(四のみこのうせ給へるつとめて風ふくに)

(四の親王が姿を消された翌朝風吹くときに……或る親王が、出家のため・姿を消された翌朝、心に風吹く時に)

 秋の田のかりほにきゐるいなかたの いなとも人にいはましものを

 (秋の田の仮小屋に来て居るいなごたちのように、いや・出家は否よとでも、あの人に言えばよかったのになあ……飽き満ちた女のかり井ほりに来ている異な方のように、否とでもあの人に言えればなあ・こんな哀しみなかったのに)。


 言の戯れと言の心

「秋…収穫の秋…飽き満ち足り…厭き」「田…女」「かりほ…かりいほ…仮庵…臨時の宿…仮の女…一時の女…かり井ほ」「庵、家、宿、井……女」「いなかた…イナゴの群れか…毛嫌いされる虫の名か…異な方…思わぬ男」「いはまし…言うのが適当だろう…言えばよいのに」「ものを…のに…のになあ…感嘆・詠嘆の意を表す」。

 


 以上の六首、親王が正妻たちを見捨てて出家された時に、小町が、一時の愛人の立場で詠んだ哀しい歌といえるでしょう。

 

百人一首に定家の撰んだ天智天皇の御歌がある。

秋の田の刈り穂のいほのとまをあらみ 我がころもてはつゆに濡れつつ

歌の内容は、小町の歌と全く異なるけれども、「歌の言葉」は、ほぼ同じ文脈にある。この歌の学問的解釈は「秋の田の刈り稲穂の番小屋の苫の編目が粗くて、わが衣の袖は露に濡れて居る」という。そのような実景を詠んだだけの歌だろうか。「余情妖艶」を理想とする定家の歌論に反し、その父俊成の歌論の、歌の言葉は「浮言綺語の戯れには似たれども、言の深き旨も顕れる」と言うことを、全く無視している。


 ついでながら、この歌の言の戯れと言の心を心得てみよう。

「秋の田…飽き満ち足りた女」「田…多…女」「かりほ…刈り穂…狩りするおとこ…猟するおとこ」「ほ…お…おとこ」「いほ…庵…井ほ…女」「とま…苫…茅などを筵に編んだもの屋根や周囲に用いる…門間…女」「と…門…女」「間…女」「あらみ…粗くて…荒くて」「衣…心身の換喩…身や心」「手…袖…端…身の端」「つゆ…露…汁…液」。


 どのような趣旨が顕れるかは、聞く人の耳にお任せする。「清げな姿」と「心におかしきところ」を同じ一つの言葉で表すのが歌である。


 

『群書類従』和歌部、小町集を底本とした。歌の漢字表記と仮名表記は、適宜換えたところがあり同じではない。


 
 以下は、歌を恋しいほどのものとして聞くための参考に記す。

 

古今集真名序には「彼の時、澆漓(軽薄な)歌に変わり、人々は奢淫(おごって・淫らな)歌を貴び、浮詞は雲と興り、艶流れ泉と湧く、歌の実皆落ち、その華独り栄える」とある。彼の時は、小野小町等が歌を詠んだ時代のことである。

 

紀貫之は古今集仮名序の結びに、「歌の様を知り、言の心を心得える人」は、古今の歌が恋しくなるだろうと述べた。

歌の様(和歌の表現様式)については、藤原公任に聞く。公任は清少納言、紫式部、和泉式部、藤原道長らと同じ時代を生きた人で、詩歌の達人である。

優れた歌の定義を、『新撰髄脳』に次のようにまとめている。「心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」。歌は一つの言葉で複数の意味が表現されてあることを前提にした定義である。

 

貫之と公任の歌論を援用して、歌を紐解いて行けば、隠れていた「心におかしきところ」が顕れる。それは、言いかえれば、エロス(性愛・生の本能)である。もう一つ言いかえれば、「煩悩」である。

藤原俊成は、『古来風躰抄』に次のように述べた。歌の言葉は「浮言綺語の戯れには似たれども、言の深き旨も顕れ、これを縁として仏の道ににも通はさんため、かつは煩悩即ち菩提なるが故に、―略― 今、歌の深き道を申すも、空・仮・中の三諦に似たるによりて、通はして記し申すなり」。

歌の「心におかしきところ」に顕れるのは、煩悩であり、歌に詠まれたそれは、即ち菩提(煩悩を断ち真理を知って得られる境地)であるという。

 

清少納言の言語観は『枕草子』(3)にある。「同じ言なれども、聞き耳異なるもの、法師の言葉、男の言葉、女の言葉」。同じ言葉でも、聞く耳によって異る『意味に』聞こえるもの、それが我々の言葉であるという。

 

上のような平安時代の言語観と歌論を無視して、江戸時代以来、国学と国文学によって、歌集や歌物語の歌の注釈と、「清げな姿」のみから憶測する解釈が行われてきたけれども、それらは根本的に間違っている。