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帯とけの小町集
小町の歌は、清げな姿をしているけれども、紀貫之のいう、歌のさま(歌の表現様式)を知り、言の心(字義以外に孕む意味)を心得て聞けば、悩める美女のエロス(生の本能・性愛)が、「心におかしきところ」として、今の人々の心にも直に伝わるでしょう。
小町集 48
(五月五日さうぶにさして人に)、
(五月五日、菖蒲に挿して人に……さつき何時か、壮夫に挿して男に)、
露の命はかなきものを朝夕に いきたるかぎりあひみてしがな
(露の命のようにはかないものだから、朝夕に、生きている限り逢い、お目にかかっていたい……おとこ白つゆが、はかないものなので、朝夕に、逝き尽く限り、合い見ていたいの)。
言の戯れと言の心
「つゆ…露…はかなきもの…おとこ白つゆ」「ものを…のに…のだから」「たる…たり…存続、継続の意を表す」「かぎり…限界…限度…極致…あるだけ全て」「あひみてしがな…相見ていたい…合い見ていたい」「合…合体…和合」「見…目で見ること…覯…媾…まぐあい」「がな…自己の願望を表す」。
この歌は、まさに恋歌であり乞い歌である。
このような歌と同じ文脈に在る清少納言は、次のようなことを『枕草子』(7)に記した。
正月一日、三月三日は、いとうららかなる。五月五日は、くもりくらしたる。
(正月一日、三月三日は、とっても麗らかな天候である。五月五日は、一日中曇り暮らす・梅雨である。……むつきついたち、やよひみかは、いと麗らかなる。さつきいつかは、くもり暮らしたる・四月十日、道隆薨、宮の内に暗雲立ち込めたか。……睦つきつい立ち、や好い身かは、とってもうららかな心地である。さ尽き、何時かは、苦盛り暮らす。)
節句の日の天候の備忘録だろうと、この程度に読み過ごすのは、あまりにも単純明快すぎる。作者も読者も和歌の言葉で育まれているので、そのような一義な文ではありえない。清少納言は「をかし」と思えることなどを、「清げな姿」にして記している。その言語観は、枕草子(3)にある。
同じ言なれども、聞き耳異なるもの、法師の言葉、男の言葉、女の言葉。
(同じ言葉でも、聞く耳によって異る『意味に』聞こえるもの、それが我々の言葉である)。
『群書類従』和歌部、小町集を底本とした。歌の漢字表記と仮名表記は、適宜換えたところがあり、同じではない。
以下は、歌を恋しいほどのものとして聞くための参考に記す。
古今集真名序には「彼の時、澆漓(薄ぺらい)歌に変わり、人々は奢淫(おごって・淫らな)歌を貴び、浮詞は雲と興り、艶流れ泉と湧く、歌の実皆落ち、その華独り栄える」とある。彼の時は、小野小町等が歌を詠んだ時代のことである。
紀貫之は古今集仮名序の結びに、「歌の様を知り、言の心を心得える人」は、古今の歌が恋しくなるだろうと述べた。
歌の様(和歌の表現様式)については、藤原公任に聞く。公任は清少納言、紫式部、和泉式部、藤原道長らと同じ時代を生きた人で、詩歌の達人である。
優れた歌の定義を、『新撰髄脳』に次のようにまとめている。「心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」。歌は一つの言葉で複数の意味が表現されてあることを前提にした定義である。
貫之と公任の歌論を援用して、歌を紐解いて行けば、隠れていた「心におかしきところ」が顕れる。それは、言いかえれば、エロス(性愛・生の本能)である。もう一つ言いかえれば、「煩悩」である。
藤原俊成は、『古来風躰抄』に次のように述べた。歌の言葉は「浮言綺語の戯れには似たれども、言の深き旨も顕れ、これを縁として仏の道ににも通はさんため、かつは煩悩即ち菩提なるが故に、―略― 今、歌の深き道を申すも、空・仮・中の三諦に似たるによりて、通はして記し申すなり」。
歌の「心におかしきところ」に顕れるのは、煩悩であり、歌に詠まれたそれは、即ち菩提(煩悩を断ち真理を知って得られる境地)であるという。