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帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に歌論と言語観を学んで聞き直せば、隠れていた歌の「心におかしきところ」が顕れる。それは、普通の言葉では述べ難いエロス(性愛・生の本能)である。
今の人々にも、歌から直接心に伝わるように、貫之のいう「言の心」と俊成の言う「歌言葉の戯れ」の意味を紐解く、おそらくこれは、大昔から大和言葉の孕んでいた「言霊」の正体だろう。
「古今和歌集」巻第一 春歌上(46)
寛平御時后宮歌合の歌 よみ人しらず
梅が香を袖に移してとどめてば 春は過ぐとも形見ならまし
(梅の花の香りを、衣の袖に移して留めれば、春の季節が過ぎても、春の思い出の品とはなるだろう……おとこ花の香を、ひとの身の袖に移して留めれば、春情は・張るものは、過ぎ去っても、遺品には・片見の思い出には、なるだろうよ)
歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る
「梅…木の花…言の心は男花…おとこ花」「袖…衣の袖…身のそで」「春…季節の春…春情…張る」「かたみ…形見…遺品…思い出の品…思い出の縁(よすが)…片見…不満足な媾」「見…覯…媾…まぐあひ」「まし…もし何々ならば何々だろうに…もし何々ならば何々になるだろう…反実仮想の上に立って推量や意向を表す、希望や憤懣を含むことがある」。
早々と散る梅の花、香りだけでも袖に染み込ませて留めおけば、春の思い出のよすがとはなるだろう。――歌の清げな姿。
おとこ花の香を、ひとの身のそでに留めておけば、張るものの片見の思い出のよすがになるだろうよ。――心におかきところ。
詠み人しらず。男の詠んだ歌として聞いた。おとこの恒常的な疾患と思われる早過ぎる張るの消滅の開き直りのようである。梅の花の散るのは、吹く風の所為で自らの意志では無いわ、身のそでの残り香を、春の思いを思い出すよすがとせよ。
「寛平御時后宮歌合」は、どのような形式で行われたか詳細はわからないが、この左方の歌と合わされた右方の歌は、合わせる歌として最も相応しい歌が選ばれたはずである。
ゆく春の跡だにありと見ましかば 野辺のまにまにとめましものを
(去り行く季節の春の跡が有ると思えば、野辺を思うままに求めあるくでしょうに……逝く張るものの跡が有ると思えば、山ばの失せた野辺を思うままに、留めたはるものを・さがし求めるでしょうよ・言われなくても)
「ゆく…行く…逝く」「春…季節の春…春情…張る」「のべ…野辺…山ばでは無くなったところ」「まにまに…なりゆきで…思うままに」「とめ…止め…とどめる…求め…求める」
詠み人知らず。女の歌として聞いた。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本に依る)