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帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に歌論と言語観を学んで聞き直せば、歌の「清げな姿」だけではなく、隠れていた「心におかしきところ」が顕れる。それは、普通の言葉では述べ難いエロス(性愛・生の本能)である。今の人々にも、歌から直接心に伝わるように、貫之のいう「言の心」と俊成の言う「歌言葉の戯れ」の意味を紐解く。
「古今和歌集」巻第一 春歌上(53)
渚院にて桜の花を見てよめる 在原業平朝臣
世中にたえてさくらのなかりせば 春の心はのどけからまし
(渚の院にて、桜の花を見て、詠んだと思われる・歌……渚院(惟嵩親王の交野の狩場の離宮)にて、桜の花見をして(酒を飲みながらお供の者が皆歌を詠んだとき)詠んだらしい・伊勢物語82にある歌) 在原業平朝臣
(世の中に、絶えて、桜花が、無ければ、季節の春を迎える人の心は、長閑だろうになあ……女と男の・夜中に、絶えて、おとこ端が、無ければ、春の情は、のんびりしたものだろうに)
歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る
「世中…世の中…男と女の仲…よなか…夜中…夜の仲」「さくら…桜…木の花…言の心は男…咲くら…さくという状態」「ら…状態を表す接尾語」「春の心…季節の春を迎える人の心…春情」「のどけからまし…のどかだろうに…のんびりしているだろうに…激しくもあわただしくも咲き散り果てないだろうに」「まし…仮に想像する意を表す、希望や意向が含まれる」
世の中に、桜が無かったならば、季節の春を迎える人の心は、もう少し・のんびりとしているだろうに。――歌の清げな姿。
女と男の夜中に、お端が、この世に絶えて無かったならば、春の情はのんびりしたものだろうになあ。――心におかしきところ。
歌は嘯き(うそぶき)である。あらぬ方向に向かって口笛を吹くように呻き嘆く。文徳天皇の第一皇子惟嵩親王は、第四皇子(のちの清和天皇)との東宮あらそいに敗れ、やがて、第四皇子が御年九歳で即位された。その摂政となった御祖父、藤原良房にしてやられたのである。惟嵩親王を御慰めするための狩りと花見の宴で、御供の業平が詠んだ歌である。「絶えて、桜花が無かったならば、世中は・長閑なのになあ」の「桜花…男花…おとこ端」は藤原良房のことに違いない。歌の様を知り、言の心を心得る人には、歌の「深い心」も伝わるのである。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本に依る)