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帯とけの「古今和歌集」
―秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に歌論と言語観を学んで聞き直せば、歌の「清げな姿」だけではなく、隠れていた「心におかしきところ」が顕れる。それは、普通の言葉では述べ難いエロス(性愛・生の本能)である。今の人々にも、歌から直接心に伝わるように、貫之のいう「言の心」と俊成の言う「歌言葉の戯れ」の意味を紐解く。
「古今和歌集」巻第一 春歌上(49)
人の家に植へたりける桜の花、咲きはじめたりける
を見てよめる 貫 之
今年より春しりそむる桜花 ちるといふ事はならはざらなん
(他人の家に植えたあった桜の花が咲きはじめたのを見て詠んだと思われる・歌……女の井辺に植えつけたおとこ端、咲き始めたのを思って詠んだらしい) つらゆき
(今年より春を知り初める桜花、散るといふ事は、倣はないでほしい……成人した・今年より、春の情を知り初める、おとこはなよ、散り果てる事は、倣わないほうがよいぞ)
歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る
「今年より…(成人した男・十五歳ぐらいの)今年より…(初冠した男)今年より…(また初々しい被りものしたおとこの)今年より」「春…季節の春…青春…春情」「桜花…木の花…梅と同じく言の心は男…男花…おとこ端」「ちる…散る…散り果てる…張るが尽きる」「ならはざら…習はない…倣はない…模倣しない…前にならへしない」「ざら…ず…打消しの意を表す」「なん…なむ…(ならわないで)欲しい…強く望む意を表す…(ならわない)方がいい…適当・当然の意を表す」。
今年より咲き初める若木の桜花、散るという事は、前例に・倣わないで欲しいものだ。――歌の清げな姿。
これだけでは歌では無い。清げな姿しか見えないならば、正岡子規のように「貫之は下手の歌詠み」というべきである。
今年より、春の情を知り初める、おとこはなよ、散り尽きる事は倣わない方がいい・おんなにうらまれるぞ。――心におかしきところ。
国文学的解釈は、歌の清げな姿しか見えないので解釈者の憶見を加えて歌らしく聞こうとする。例えば、桜を擬人化して、咲くを知り初めると言うところが面白いとか、若木の初花を祝う心があるのだろうなどと。この時代の、歌のさま(歌の表現様式)を知らず「言の心」を心得ていない解釈方法である。
間違った解釈が常識化して「古文」と称する学科で、次代の若者に習わせている事に対して、警鐘を鳴らし続ける。
○紀貫之は、歌のさまを知り、言の心を心得る人は、古今の歌が恋しくなるだろうと記した。(古今集仮名序の結び)
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本に依る)