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帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に歌論と言語観を学んで聞き直せば、歌の「清げな姿」だけではなく、隠れていた「心におかしきところ」が顕れる。それは、普通の言葉では述べ難いエロス(性愛・生の本能)である。今の人々にも、歌から直接心に伝わるように、貫之のいう「言の心」と俊成の言う「歌言葉の戯れ」の意味を紐解く。
「古今和歌集」巻第一 春歌上(51)
(題しらず) (よみ人しらず)
山さくらわがみにくればはるがすみ 峰にもおにもたちかくしつゝ
(山桜、わたしが見に来れば、春霞、峰にも尾根にも立ち、いつも・隠すのよ……山ばのおとこ端、わたしが見に繰れば、春が済み・張るが済み、有頂天も、お根も、絶ち、隠し・斯くし、いつも・筒)
歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る
「山桜…山の桜…山ばのおとこ端」「桜…木の花の言の心は男」「見…見物…覯…媾…まぐあい」「くれば…来れば…繰れば…繰り返せば」「春霞…はるがすみ…春が済み…春情・張るが済み」「峰…頂上…有頂天・この世での快楽の頂点」「お…を…尾根…男…おとこ」「たち…(霞が)立ち…(有頂天を)絶ち」「かくし…隠し…失せて…斯くし…このようにして」「つつ…反復・継続を表す…いつもいつも…筒…おとこはただの筒となってしまう」
山桜、われが見に来れば、春霞が山の峰にも尾根にも立ちこめて、隠す、いつも。――歌の清げな姿。
山ばのおとこ端、わたしが見に繰れば、貴身は・張るが済み、絶頂でも尾根でも、絶ち、身を隠す、いつも筒ね。――心におかしきところ。
女の歌として聞いた。絶ち失せてしまうおとこに対する、おんなの恨みごとである。貫之の歌(49)のとおり、おとこは、散り果てることを倣わない方がいい。しかい、これはおとこの性(さが)なので、どうしょうもない。女は、このような歌々を通じて、おとこなんて、はかなく哀れな物だと、知っておいた方がいい。「人間の倫理を教化し、夫婦あい和すに、和歌ほど宜しきものはない」。真名序には次のように記されてある。「化人倫、和夫婦、莫宣於和歌」。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本に依る)