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帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って、古今和歌集を解き直している。
歌の表現様式を知り、言の心を心得る人は、歌が恋しくなるであろうと、貫之は言った。
優れた歌は、心深く、姿清げで、心におかしきところがあると、公任は言った。仮にも数百首解いてきた、全ての歌に清げな姿と心におかしきところがあることがわかった。深い心と、三拍子揃うことは至難の業らしい。
古今和歌集 巻第五 秋歌下 (282)
宮仕へ久しうつかうまつらで、山里にこもり侍り
けるによめる 藤原関雄
奥山の岩垣もみぢ散りぬべし 照る日の光見る時なくて
(宮仕えを久しくしなくて、山里に籠もっていた時に詠んだと思われる・歌……宮こ仕え・おんなを絶頂に、久しく送り届けられず、山ばのふもとに籠もっていたので、詠んだらしい・歌) せきを
(奥山の岩の垣根に見えるもみじ、散ってしまうだろう、照る陽光、見る時なくて……奥深い女の山ばの、井端に囲まれた、も見じ、散ってしまうだろう、照る男の光、吾妻に・見せることなくて)
「宮仕へ…宮中に仕えること…女を、宮こ(絶頂」.
「奥山…深山…奥深い女の山ば」「奥…言の心は女」「岩…言の心は女…いは…井端…おんな」「かき…垣…囲い」「もみぢ…秋の色…飽きの果て…も見じ…も見ない」「日の光…天子の栄光…男の栄光」「見る…お目にかかる…思う」「見…覯…媾…まぐあい」。
療養のために山里に籠もっている。陽光浴びることなく、天子の御光をうけることなく、我が命・もみじのように、散ってしまうのだろう――歌の清げな姿
奥深いおんなの山ばの、井端に顔まれた、我がも見じ、散ってしまいそうだ、照るおとこの栄光見ることなく・吾妻に見せられなくて――心におかしきところ。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)