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帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って、古今和歌集を解き直している。紀貫之は、「歌の表現様式を知り、言の心を心得る人は、大空の月を見るように、古を仰ぎて、今の歌を恋しくなるであろう」と仮名序で述べたのである。原文は「うたのさまをしり、ことの心をえたらむ人は、おほそらの月を見るがごとくに、いにしへをあふぎて、いまをこひざらめかも」とある。「うたのさま」を「歌の様」と聞き「歌の有様」、「ことの心」を「事の心」としか聞えなくなったならば、貫之の歌論の主旨は伝わらいばかりか、歌論でさえなくなる。
古今和歌集 巻第五 秋歌下 (297)
北山にもみぢ折らむとてまかれるける時によめる
つらゆき
見る人もなくて散りぬる奥山の もみぢは夜の錦なりけり
北山にもみぢ折ろうと、出かけた時に詠んだと思われる・歌……来た山ばにて、も見じ端折ろうとして逝った時に、詠んだらしい・歌 つらゆき
(見る人もなくて、散ってしまう奥山のもみぢは、闇夜の色彩豊かな錦織だなあ・この世に無いのと同然……見る女もなくて、散り失せた、お苦山ばのも見じ端は、誰も見ることができない闇夜の、色情豊かな錦織だなあ)。
「見…覯…媾…まぐあい」。
北山の晩秋の夜を想像したもみぢ風景――歌の清げな姿。
おとこの、孤独な悲哀に満ちた、色情の果ての情態――心におかしきところ。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)