帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第五 秋歌下 (297)見る人もなくて散りぬる奥山の  

2017-10-17 19:29:26 | 古典

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                       帯とけの「古今和歌集」

                       ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って、古今和歌集を解き直している。紀貫之は、「歌の表現様式を知り、言の心を心得る人は、大空の月を見るように、古を仰ぎて、今の歌を恋しくなるであろう」と仮名序で述べたのである。原文は「うたのさまをしり、ことの心をえたらむ人は、おほそらの月を見るがごとくに、いにしへをあふぎて、いまをこひざらめかも」とある。「うたのさま」を「歌の様」と聞き「歌の有様」、「ことの心」を「事の心」としか聞えなくなったならば、貫之の歌論の主旨は伝わらいばかりか、歌論でさえなくなる。

 

                                                              

古今和歌集  巻第五 秋歌下297

 

北山にもみぢ折らむとてまかれるける時によめる

  つらゆき

見る人もなくて散りぬる奥山の もみぢは夜の錦なりけり

 

北山にもみぢ折ろうと、出かけた時に詠んだと思われる・歌……来た山ばにて、も見じ端折ろうとして逝った時に、詠んだらしい・歌   つらゆき

(見る人もなくて、散ってしまう奥山のもみぢは、闇夜の色彩豊かな錦織だなあ・この世に無いのと同然……見る女もなくて、散り失せた、お苦山ばのも見じ端は、誰も見ることができない闇夜の、色情豊かな錦織だなあ)。

 

「見…覯…媾…まぐあい」。

 

北山の晩秋の夜を想像したもみぢ風景――歌の清げな姿。

おとこの、孤独な悲哀に満ちた、色情の果ての情態――心におかしきところ。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)