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帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って、古今和歌集を解き直している。紀貫之は、「歌の表現様式を知り、言の心を心得る人は、大空の月を見るように、古を仰ぎて、今の歌を恋しくなるであろう」と仮名序で述べたのである。原文は「うたのさまをしり、ことの心をえたらむ人は、おほそらの月を見るがごとくに、いにしへをあふぎて、いまをこひざらめかも」とある。「うたのさま」を「歌の様」と聞き「歌の有様」、「ことの心」を「事の心」としか聞えなくなったならば、貫之の歌論の主旨は伝わらいばかりか、歌論でさえなくなる。
古今和歌集 巻第五 秋歌下 (300)
かんなびの山を過ぎて龍田川をわたりける時に、
もみぢの流れけるをよめる 清原深養父
神奈備の山をすぎゆく秋なれば 龍田川にぞぬさはたむくる
(神なびの山を過ぎて、龍田川を渡った時に、もみぢの流れたのを、詠んだと思われる・歌……かみなびの山ば過ぎて、たつた川を渡った時に、も見じの流れているのを、見て詠んだらしい・歌) きよはらのふかやぶ
(神の鎮座する山を過ぎゆく、秋の季節なので、自ら・龍田川にぞ、紅葉のぬさ、たむけている……女のなびく山ばを過ぎ逝く、我が・厭きなので、断った川にぞ、色情豊かなもの、たむけている)。
「神…髪…上…女」「秋…飽き…厭き」「龍田川…川の名…名は戯れる。多々の川、断った川」「川…言の心は女…おんな」。
秋の季節が、もみじをぬさのように散らして、去り行く晩秋の景色――歌の清げな姿。
女、靡く山ばに送り届け、過ぎ逝く我が厭きなので、多々の色情断った川にぞ、ぬさはたむけたままよ――心におかしきところ。
深養父は、清少納言の曾祖父か祖父とも言われる。清少納言の言語観は先に述べた。歌についての思いも枕草子(5月の御精進のほど)の最後にある。「つつむことさぶらはずは、千の歌なりと、これよりなん出でもうでこましと、啓しつ」。翻訳すれば「包むことがなくていいのなら、これより、千の歌でも、詠み出せますと、中宮に・申し上げた」。公任のいう「心におかしきところ」(生の本能・エロス・煩悩)は千ほど持っていますが、「清げな姿」で、包むことが難しく苦手なのですと、言ったのである。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)