帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第五 秋歌下 (300)神奈備の山をすぎゆく秋なれば 

2017-10-19 19:45:30 | 古典

            

 

                       帯とけの「古今和歌集」

                      ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って、古今和歌集を解き直している。紀貫之は、「歌の表現様式を知り、言の心を心得る人は、大空の月を見るように、古を仰ぎて、今の歌を恋しくなるであろう」と仮名序で述べたのである。原文は「うたのさまをしり、ことの心をえたらむ人は、おほそらの月を見るがごとくに、いにしへをあふぎて、いまをこひざらめかも」とある。「うたのさま」を「歌の様」と聞き「歌の有様」、「ことの心」を「事の心」としか聞えなくなったならば、貫之の歌論の主旨は伝わらいばかりか、歌論でさえなくなる。

 

                                                              

古今和歌集  巻第五 秋歌下300

 

かんなびの山を過ぎて龍田川をわたりける時に、

もみぢの流れけるをよめる    清原深養父

神奈備の山をすぎゆく秋なれば 龍田川にぞぬさはたむくる


      (神なびの山を過ぎて、龍田川を渡った時に、もみぢの流れたのを、詠んだと思われる・歌……かみなびの山ば過ぎて、たつた川を渡った時に、も見じの流れているのを、見て詠んだらしい・歌)    きよはらのふかやぶ

(神の鎮座する山を過ぎゆく、秋の季節なので、自ら・龍田川にぞ、紅葉のぬさ、たむけている……女のなびく山ばを過ぎ逝く、我が・厭きなので、断った川にぞ、色情豊かなもの、たむけている)。

 

「神…髪…上…女」「秋…飽き…厭き」「龍田川…川の名…名は戯れる。多々の川、断った川」「川…言の心は女…おんな」。

 

秋の季節が、もみじをぬさのように散らして、去り行く晩秋の景色――歌の清げな姿。

女、靡く山ばに送り届け、過ぎ逝く我が厭きなので、多々の色情断った川にぞ、ぬさはたむけたままよ――心におかしきところ。

 

深養父は、清少納言の曾祖父か祖父とも言われる。清少納言の言語観は先に述べた。歌についての思いも枕草子(5月の御精進のほど)の最後にある。「つつむことさぶらはずは、千の歌なりと、これよりなん出でもうでこましと、啓しつ」。翻訳すれば「包むことがなくていいのなら、これより、千の歌でも、詠み出せますと、中宮に・申し上げた」。公任のいう「心におかしきところ」(生の本能・エロス・煩悩)は千ほど持っていますが、「清げな姿」で、包むことが難しく苦手なのですと、言ったのである。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)