帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第五 秋歌下 (309)もみぢ葉は袖にこきいれてもていでなむ

2017-10-26 19:10:49 | 古典

            

 

                       帯とけの「古今和歌集」

                      ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って、古今和歌集を解き直している。

紀貫之は、「歌の表現様式を知り、言の心を心得る人は、大空の月を見るように、古を仰ぎて、今の歌を恋しくなるであろう」と仮名序で述べたのである。原文は「うたのさまをしり、ことの心をえたらむ人は、おほそらの月を見るがごとくに、いにしへをあふぎて、いまをこひざらめかも」とある。「うたのさま」を「歌の様」と聞き「歌の有様」、「ことの心」を「事の心」としか聞えなくなったならば、貫之の歌論の主旨は伝わらいばかりか、歌論でさえなくなる。

近世の国学、近代以来の国文学も、貫之の歌論を曲解し無視して、古典和歌の解釈を行い、其れが常識として今の世に蔓延っている。

 

古今和歌集  巻第五 秋歌下309

 

北山に、僧正遍照と、たけ(茸)がりにまかれりけるに

よめる                  素性法師

もみぢ葉は袖にこきいれてもていでなむ 秋は限りと見む人のため

(北山に、父の僧正遍照と、きのこ狩りに出かけた時に詠んだと思われる・歌……ついに来た生涯の山ばに、父僧正遍照と、まつたけ刈りに出かけた時に、詠んだらしい・歌)  そせい

(もみぢ葉は袖にしごき入れて、持って山を出よう、秋はもうこれまでかと思っている都人のために……も見じ端は、身のそでにできるだけ多く入れて、出家しよう、貴身の厭きはこれが限りかと、見るだろう妻たちのために)。

 

「北山…来た生涯の山ば…父より出家を迫られるとき」「たけ…茸…きのこ…まつたけ…おとこ」「かり…刈…おとこの煩悩を断つ」。

「もみぢ…厭きの果ての色…も見じ…も見ないつもり」「袖…衣の袖…身と心の端」「衣…心身を被うもの…心身「秋…季節の秋…飽き…厭き」「見む…見るだろう…思うだろう」「見…覯…媾…まぐあい」「人…人々…妻たち(複数いた)」。「

 

北山に、父と松茸狩り出掛けた時に詠んだ晩秋の思い――歌の清げな姿。

出家の決心を、妻たちに告げる夜、はかない男のさが(性)を超えようとする、けなげな男のありさま――心におかしきところ。

 

明治の国文学者金子元臣は、詞書きの「僧正遍照と」の五文字は無い方がよい言い、この歌を、次のように解釈した。、

「一首の意は、この梢の紅葉を、自分の袖へこき入れて、この山を持ちて出て、土産にせうぞ、ここらに来て見ずに、秋は最早仕舞ひだと思ふ人の為にサとなり」(原文のまま)。平安時代の人々もこれだけの歌とほんとうに思っていただろうか。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)