帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第五 秋歌下 (311)年ごとにもみぢ葉(312)夕づくよをぐらの

2017-10-28 19:37:37 | 古典

            

 

                       帯とけの「古今和歌集」

                        ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って、古今和歌集を解き直している。

紀貫之は「歌の表現様式を知り、言の心を心得る人は、大空の月を見るように、古を仰ぎて、今の歌を恋しくなるであろう」と仮名序で述べた。原文は「うたのさまをしり、ことの心をえたらむ人は、おほそらの月を見るがごとくに、いにしへをあふぎて、いまをこひざらめかも」とある。「うたのさま」を「歌の様」と聞き「歌の有様」、「ことの心」を「事の心」としか聞えなくなったならば、貫之の歌論の主旨は伝わらいばかりか、歌論でさえなくなる。

近世の国学、近代以来の国文学も、貫之の歌論を曲解し無視して、古典和歌の解釈を行い、其れが常識として今の世に蔓延っている

 

古今和歌集  巻第五 秋歌下311

 

秋の果つる心を、龍田河に思やりてよめる     貫 之

年ごとにもみぢ葉ながすたつた河 みなとや秋のとまりなる覧

(季節の・秋の果てる心を、龍田川に、思いをはせて詠んだと思われる・歌……厭きの果てる心を、多情おんなに、思いをはせて詠んだらしい・歌)   つらゆき

毎年、もみぢ葉流す龍田川、湊は、季節の・秋の泊り所なのだろうか……疾し毎に、も見じ端流す、多っ多おんな、身な門は、おとこの・厭きの留まりどころなのだろうか・乱)

 

「とし…年…疾し…早過ぎ…おとこのさが」「もみぢ…秋の色…も見じ…見るつもりなし」「見…覯…媾…まぐあい」「みなと…湊…水門…身な門…おんな」「秋…季節の秋(国文学は、この意味に限定し、そこから脱却できそうにない)…飽き…厭き」「覧…らむ…らん…見…嵐…乱」。

 

年毎に、もみぢ葉流す龍田川、湊は、季節の秋の泊り所なのだろうか――歌の清げな姿。

早過ぎるおとこの果て毎に、も見じ端を流す、多情のおんな・断ったかは?身の門は、厭きの溜まりだろうか・乱れている――心におかしきところ。

 

 

古今和歌集  巻第五 秋歌下312

 

長月の晦日、大井にて、よめる        

夕づくよをぐらの山になく鹿の 声のうちにや秋は暮るらむ

(晩秋九月の晦日、大井にて詠んだと思われる・歌……長突きの果て、大いなるおんなにて、詠んだらしい・歌)つらゆき

夕月夜、小倉の山で鳴く鹿の、声するうちに、季節の秋は暮れゆくのだろうか……夕方の尽きよ、小暗い山ばで泣くめす肢下が、小枝のうちにや、厭きは来たのだろう)。

 

「月…月人壮士…男…おとこ…突き」「大井…地名…名は戯れる。大いなるおんな、多情なおんな」「井…おんな」 「にて…場所を表す…原因理由を表す」。

「しか…鹿…めす肢下…雄鹿はさを鹿という」「声…小枝…小おとこ…薄情なおとこ…情の少ないおとこ」「秋…飽き…厭き」「くる…暮る…果てる…来る」。

 

夕月夜、小倉の山で鳴く鹿の、声するうちに、季節の秋は暮れゆくのだろうか――歌の清げな姿。

夕方の尽きよ、小暗い山ばで泣くめす肢下が、おとこ小枝を内にしてや、厭きは来たのだろう――心におかしきところ。

 

二首は、早過ぎるおとこのさが、乱れ、泣く、おんなの情態を詠んだようである。、

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)