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帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って、古今和歌集を解き直している。紀貫之は、「歌の表現様式を知り、言の心を心得る人は、大空の月を見るように、古を仰ぎて、今の歌を恋しくなるであろう」と仮名序で述べたのである。原文は「うたのさまをしり、ことの心をえたらむ人は、おほそらの月を見るがごとくに、いにしへをあふぎて、いまをこひざらめかも」とある。「うたのさま」を「歌の様」と聞き「歌の有様」、「ことの心」を「事の心」としか聞えなくなったならば、貫之の歌論の主旨は伝わらいばかりか、歌論でさえなくなる。
古今和歌集 巻第五 秋歌下 (298)
秋の歌 兼覧王
龍田姫たむくる神のあればこそ 秋の木の葉のぬさと散るらめ
(秋の歌……あきの歌) かねみのおほきみ
(龍田姫に、手向ける神があればこそ、秋の木の葉が、幣となって散るのだろう……龍田姫にたむける男神があるからこそ、厭きのこの端が、ぬさとなって散るのだろう)
「ぬさ…弊…神にたむけるもの」「神…言の心は女…髪…上…うえ…女」「秋…飽き…厭き」。
龍田姫に、もみぢの幣を手向ける男神、晩秋の幻想的風景――歌の清げな姿。
男神の、も見じが、ぬさとなって散る、厭きの果てのありさま――心におかしきところ。
古今和歌集 巻第五 秋歌下 (299)
小野といふ所に住みはべりける時、もみぢを見て 詠める
つらゆき
秋の山紅葉をぬさとたむくれば 住むわれさへぞ旅心地する
(小野といふ所に住みはべりける時、もみぢを見て詠んだと思われる・歌……山ばでは無いおのというところに、済んだ時、も見じを思って、詠んだらしい・歌) 貫之
(秋の山が、紅葉を幣として、神に・手向ければ、住む我さえも、旅心地する……厭きの山ば、も見じを、ぬさとして、女に・手向ければ、済む我れも小枝も、孤独で寂しい旅心地がする)。
「すむ…住む…済む…澄む」「さへ…さえ…小枝…おとこの自嘲的表現」。
秋の山が、紅葉を幣のように降り散らせば、住んでいる我も旅心地する――歌の清げな姿。
厭きの山ばにて、も見じお、女に・幣としてものたむければ、済む我も、わが小枝も、孤独で寂しい心地がする――心におかしきところ。
小野は、紀氏と縁のある惟嵩親王の出家された所、兼覧王はその御子(母は紀有常の妹)。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)