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帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に歌論と言語観を学んで聞き直せば、歌の「清げな姿」だけではなく、隠れていた「心におかしきところ」が顕れる。それは、普通の言葉では述べ難いエロス(性愛・生の本能)である。今の人々にも、歌から直接心に伝わるように、貫之のいう「言の心」と俊成の言う「歌言葉の戯れ」の意味を紐解く。
「古今和歌集」巻第二 春歌下(76)
桜の花の散り侍りけるを見てよみける 素性法師
花ちらす風の宿りは誰かしる 我にをしへよ行きてうらみむ
(桜花が散ったのを見て詠んだ・歌……男花が散った様子を思って詠んだ歌) そせいほうし
(花散らす春風の宿り所は、花見の人々よ・誰か知っているか、我に教えよ、行って、恨みごとを言って遣ろう……おとこ花散らし果てる心風の在処を、女達よ・誰か知っているか、行きて・逝ったので、恨みごと言って遣ろう・本心を見てやろう)。
歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る
「花…木の花…男花…おとこ花」「散らす…果てさせる…尽きさせる…詞書に散り『侍り』という謙譲語があるので散ったのは詠み手のおとこ花ではない」「風…春風…(男の)心に吹く風…飽き風・厭き風など」「行きて…行きそして…逝ったので」「て…そして…ので…原因・理由を表す」「うらみむ…恨みごとを言うつもり…うら(心)を見てやろう…おとこの本心を見てやろう」「む…意志を表す」。
花散らす春風の宿り所は、誰か知っているか、我に教えよ、行って恨みごとを言って遣ろう・どうして早々に花散らすのかと――歌の清げな姿。
おとこ花散らし果てる心風の在処を、誰か知っているか、逝ったので、女たちに代わって・恨みごと言って遣ろう・貴身の心はなぜいつも薄情なのかと。――心におかしきところ。
この歌の「清げな姿」だけを見れば、江戸時代の国学者や歌人が「をさなし(幼い)」「はかなし(たわいない・子供じみている)」と評し、明治の国文学者金子元臣が「狂痴の意想、いと面白し」と評するのは当然だろう。平安時代の歌の様(表現様式)を知らず、「花…木の花」の言の心を心得ず、「風」を空気の流れとしか聞く耳持たず、心に吹く飽き風や厭き風と聞こえないので、歌の「心におかしきところ」即ち、歌のエロス(性愛・生の本能)に触れることができないのである。歌は心深いものである。
藤原俊成は、歌言葉の浮言綺語のような戯れの内に、歌の深い趣旨や主旨が顕れるといい、それを「煩悩」と捉えたようである。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)