■■■■■
帯とけの「伊勢物語」
紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観で、在原業平の原作とおぼしき「伊勢物語」を読み直しています。
伊勢物語(五十一)花こそ散らめ根さへかれめや
むかし、おとこ(昔、男…武樫おとこ)、人のせんざいに(人が前栽に…女の前庭に)、きく(菊・長寿の秋の草花…貴具)、うへけるに(植えていたので…植え付けたときに)、
植へしうへは秋なき時や咲かざらん 花こそ散らめ根さへかれめや
(植えたならば、秋来ない時は咲かないだろうな、秋には・花咲き散るだろう、根さえ枯れるだろうか、枯れはしない……植えたからには、飽き満ち足りない時は咲かないだろうな、お花は散るだろう、根、さ枝、涸れるだろうか、涸れはしないぞ・女の声は嗄れるだろうなあ)
貫之のいう「言の心」を心得て、俊成のいう「言の戯れ」を知る
「人…他人…女」「せんざい…前栽…前庭」「庭…には…ものごとが行われるところ」「きく…菊…草花…長寿の花(菊の露を綿に付けて身を拭えば若返るとか、俗信あり、紫式部も、『紫式部日記』によれば、道長の妻に勧められ拭ったようである)…言の心は女…きぐ…木具…木づくりの調度品…貴具…貴いものの具」。
「うへ…植え…種まく…うえつける」「うへは…上は…からには…以上は」「秋…飽き」「花…草花…女花…木の花…男花」「め…む…推量の意を表す」「根…おとこ…ね…音…声…感嘆の声」「かれ…枯れ…涸れ…嗄れ」「めや…推量・反語の意を表す」。
これは、おとこ自慢(おとこ誇り)の強烈な誘い歌である。男と女は、その性情の違いによって和合し難いが、その主な原因は、おとこの性(さが)のはかなさにある。武樫おとこは、その弱点を克服したかのように、「流れても、終に、頼るべき背ほねはあるぞ」とか、ここでは「女の歓喜の声は嗄れても、わが根は涸れないぞ」というのである。
在原業平は、人が不快に思い貶し腐すような言い難いことを、言の戯れを踏まえて言葉少なく表現する。そこには、おとこの匂いが今も残っているだろう。
後の人の作の「大和物語(163)」では、「在中将に、二条の后より菊を召しければ、奉りけるついでに」、この歌を詠んで、書きつけて奉ったとある。物語らしく、そのように語りたくなる気持ちはよくわかる。主人公は、あれから何年経っても、東の五条に住んでいて、他所に隠れたあの女人への愛憎を消すことはできないのだから。
(2016・6月、旧稿を全面改定しました)