帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

新・帯とけの「伊勢物語」 (五十二)  人のもとより、かさなりちまきおこせたる

2016-06-07 19:06:46 | 古典

             



                         帯とけの「伊勢物語」


 

紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観で、在原業平の原作とおぼしき「伊勢物語」を読み直しています。


 

 伊勢物語(五十二)人のもとより、かさなりちまきおこせたる

 

 むかし、おとこありけり(昔、男がいた…武樫おとこが有った)。人の・女の、許より、かさなりちまき(重ねた粽…重なり千真木)を、よこした返事に、

 あやめ刈り君は沼にぞまどひける 我は野に出でて狩るぞわびしき

 (菖蒲刈りして、あなたは、沼で路に迷ったのだなあ、我は野にでて狩りしているのだ、辛くてやるせないよ……あや女かり、あなたは情欲の沼に惑うたのだなあ、我はひら野にでて涸れている、乏しくて悲しいよ) と言って、雉(きじ…山ば・来ないだろう)をだ、遣ったのだった。

 

 

貫之のいう「言の心」を心得て、俊成のいう「言の戯れ」を知る

 「かさなりちまき…重なり粽…なおもそれを乞うとのお言葉…玉こを十つみ重ねたものと意味は同じ」「(一本)かざりちまき…飾り粽…贈り物らしく飾ってあった」「かさなり…重なり…十重二十重…千重」「ちまき…粽…食べ物の名、名は戯れる。千真木、千の真のおとこ、棒状のもの、おとこ」「木…言の心は男」「あやめ…草…言の心は女…あや女…彩女」「かり…刈り…狩り…めとり…まぐあい」「野…山ばではなくなったところ…(池)逝けでもないところ」「わびし…つらい・苦しい・せつない・かなしい…詫びし…謝罪、辞退する気持ち…貧しい…乏しい」「きじ…雉…美味な鳥肉…来じ…来ないだろう…(女の喜びの山ば)来そうにない」「雉…鳥…言の心は女」「じ…打消しの推量の意を表す」。

 

「ちまき」の戯れの意味は、「ぬさ」「かりのこ」「きぐ」と同じで「おとこ」である。この、おとこの性(さが)は、本来、はかなくて、わびしいものという物語である。

 

 この時代の「女の言葉(和歌の言葉)」の、「ちまき・粽」「あやめ・菖蒲」「かり・刈り」「ぬま・沼」「かり・狩り」「きじ・雉」の、一義的な意味しか聞こえなければ、どのような物語として読むのだろうか。男女がそれぞれ働けど、貧しい暮らしに、男が侘しさを詫び悲しんでいる物語と読めるだろうか、それは、この物語の「清げな姿」でしかない。

伊勢物語は、「みだりがはしき、をんな言にて(乱雑に戯れる女の言葉にて)」語られてある。そのうちの淫らな意味が聞こえていない。先ず、この時代の言語圏外にいることに気付くべきである。


 「聞き耳によって(意味の)異なるもの」それが「女の言葉」という清少納言の「枕草子」に、他にも、「ちまき」と同じ意味の言葉が挙げられてあるので読みましょう。

 枕草子第二百四十一章

 ただすぎにすぐる物、ほかけたるふね。人のよはひ。はる、なつ、秋、冬。

(ただ過ぎて過ぎゆくもの、帆かけた舟、人の年齢、春夏秋冬・四季の巡り……ただ過ぎて過ぎ逝く物・はかなくわびしきもの、帆かけた夫根。男の夜這い、はる(張るもの)、なつ(撫づこと)、秋(飽き)、冬(心寒いものの終)。


 「ふね…舟…ふ根…おとこ」「夏…撫づ…なつく」「はる…春…張る…おとこ」「秋…飽き」「冬…終」。 


 この文を、「をかし」と笑うか微笑むか、それとも紫式部のように、「清少納言こそ、したり顔にいみじう侍りける人」と批判するのが、おとなの正当な「聞き耳」である。一義な清げな姿しか見えない今の人々は、清少納言から見れば、言語圏外の衆である。

 

(2016・6月、旧稿を全面改定しました)