帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの土佐日記 (雨ふらず) 正月十二日・十三日

2013-01-29 00:01:02 | 古典

    



                         帯とけの土佐日記


 土佐日記(雨ふらず)正月十二日・十三日


 十二日。雨降らず。ふんとき(ときふん…時文)これもち(もちこれ…望之)の乗った船の遅れていたのが、奈良志津より室津に着いた。


 十三日の暁(夜明け前)に、すこし雨が降る。しばらくして止んだ。女、だれかれということなく、ゆあみ(湯浴)などしょうと、辺りのよさそうな所に下りてゆく。うみをみやれば(海を見わたすと…憂みをみているので)

くもゝみなゝみとぞみゆるあまもがな いづれかうみとゝひてしるべく

(雲もみな波と見える海人が居ればなあ どちらが海なのか問うて知ることができるでしょう……心の雲もみな心の波立ちと思える、尼が居ればなあ、どちらが憂みなのと問うて知ることができるでしょうに)

とこんな歌を詠んだ。

さて、十日すぎなので月が明るくすばらしい。船に乗り始めた日より、船では紅濃く良い衣は着ない。それは海の神に怖じてだと言っていて、なにのあしかげ(何の葦陰…何の脚陰)にかこつけて、ほやのつまのいずし(ほやの妻の貽すし…ほやの妻の井す肢)すしあはび(すし鮑…すし貝)を、心外にも、衣を脛に上げて(海の神に)見せてしまったことよ。

 
 言の戯れと言の心

 「うみをみやる…海を見やる…憂みをみている…辛い目にあっている」「くも…雲…心に煩わしくもわきたつもの…煩悩」「なみ…波…心の波立ち…心の乱れ」「あま…海人…尼」「うみ…海…憂み…思いの満たされない辛さ」「あしかげ…葦陰…脚陰」「ほや…海底に立つ生物…おとこ」「い…貽貝(三角洲の形)…ほやの妻…女」「い…井…女」「貝…女」「す…洲…三角州…女」「し…子…親しみ込めて付ける詞」「あはび…鮑…貝…女」。

 


 このようなものを、海神(男神か、女神かな)に見せてしまった。どうなることやらと思えば、この後、海は雨と風波で三日間荒れる。

「ふんとき」は、さかさまに読んで、ときふん(時文)、貫之の子息の名。「これもち」も、もちこれ(望之・もちゆき)で子息の名でしょう。親子は難破や沈没の危険を分散するため別の船に分乗して航海する。名は「やぎのやすのり」のように戯れるので、逆さにしてあるのでしょう。
 枕草子は、ものの名のおかしさを多く載せている。人の名についても記されてある、中でも (藤原)行成が、書状の署名を「みまなのなりゆき」として、清少納言をおかしがらせた話(第百二十六)は興味深い。「ゆきなりのなまみ…行成の生身」が書いた文と読むとおかしい書状なのである。


 伝授 清原のおうな
 聞書 かき人知らず(2015・11月、改定しました)

 
原文は青谿書屋本を底本とする新日本古典文学体系土佐日記による。