帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの土佐日記 (暁に船を) 正月十一日

2013-01-28 00:02:15 | 古典

    



                                     帯とけの土佐日記


 土佐日記(暁に船を)正月十一日


 十一日。暁に船を出して、室津に至ろうとする。人はまだみな寝ているので、海の有様も見えず。ただ月を見て、西東をば知ったのだった。こうしているうちに、すっかり夜が明けて、手を洗い例のことなどして、昼になった。今しも羽根という所に来た。
 幼い童、この所の名を聞いて、
はねといふところは、とりのはねのやうにやある(羽根という所は、鳥の羽根のようなの?…端根というところは、とりがはねるようなものなの?)」という。まだ幼い童の言なので、人々が笑うときに、居合わせた女の童がなんと、この歌を詠んだ。

まことにてなにきくところはねならば とぶがごとくにみやこへもがな

(ほんとうに名に聞く所が羽だったら、飛ぶようにして都へ帰りたいわ……まことにて汝に効くところ、跳ねるならば、飛ぶが如くに、宮こへいきたいわ)、

という。男も女も、なんとしても、とく京(早く都…早く頂上)へ至りたいと思う心があるので、この歌を良しというのではないが、その通りよと思って、人々忘れない。


 言の戯れと言の心

 「はね…羽根…端根…おとこ」「とりのはね…鳥の羽…女の跳ね…女の撥ね」「鳥…女」「はね…身をはずませる…身を撥ね上げる」「ところ…場所…箇所」「な…名…汝…おとこ」「きく…聞く…効く」「みやこ…都…京…頂上…宮こ…絶頂」「もがな…願望の意を表す」。

言の戯れも色好みなことも全く知らない童の歌だけれども、大人の耳には否応なく言の戯れの意味が聞こえる。それで、この歌を「人々笑う」のであり、「人々忘れない」のである。


 この羽根という所を問う童のついでに、また、むかしへひと(四年前に亡くなった女児)のことを思い出して、何時になったら忘れるのか。今日は増して、はゝのかなしがらるゝことは(母の悲しい思いがこみあげてくることよ)。下って来た時の人の数が足りないので、古歌の、「数は足らでぞ帰るべらなる」と言うことを思い出して、他の人が詠んだ。

 よのなかにおもひやれどもこをこふる おもひにまさるおもひなきかな

 (世の中に、思いやっても、子どもを恋う思いに勝る思いはないことよ……夜のなかに、思いやっても、この君を乞う思いにまさる思いはないのよねえ)、

と言いながら。

 


 「はゝのかなしがらるゝ…母の悲しむ感情が自然に起こる」「らるる…受身または自発の意を表わす。この語、単独で尊敬の意を表わしていない」。
語り手は女児を亡くした母自身で前国守の妻。

 言の戯れと言の心
 
「世の中…男女の仲…夜の中」「こ…子ども…子の君…おとこ」「こふ…恋う…乞う」。

 

古歌「数は足らでぞ帰へるべらなる」は、古今和歌集 「羇旅歌」にある、よみ人しらず。赴任した地方の国で夫を亡くし独り都へ帰る妻女の歌という、

北へゆく雁ぞ鳴くなる連れてこし 数はたらでぞかへるべらなる

(北へ行く雁が鳴いている、連れて来た数は足りないで、帰るようだ……来た辺で逝く、かりぞ無くなる・女ぞ泣いている、連れて山ば越した数は足りないで、独り宮こへ返るようだ)。

 言の戯れと言の心
 「北…北風…心に吹く寒風」「かり…雁…狩…刈…娶り…まぐあい…鳥…女」「なくなる…鳴いている…泣いている…無くなる」「つれてこし…引率して来た…連れてやまば越した」「かず…数…(雁の)数…ものの回数」「かへる…帰る…返る…繰り返す」「べらなる…ようすだ…しているようだ」。


 伝授 清原のおうな
 
聞書 かき人知らず(2015・11月、改定しました)

 
 原文は青谿書屋本を底本とする新日本古典文学体系土佐日記による。