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帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に歌論と言語観を学んで聞き直せば、隠れていた歌の「心におかしきところ」が顕れる。それは、言葉では述べ難いことなので、歌から直接心に伝わるよう紐解き明かす。
「古今和歌集」巻第一 春歌上(28)
題しらず よみ人しらず
もゝ千鳥さへづる春は物ごとに あらたまれども我ぞふりゆく
(百千鳥、さえずる春は、もの毎に、あらたまれども、我は、古びて・老いて、ゆく……百千の女ども、意味のわからぬ言葉を発する春の情、もの毎にあらたまり・常磐である、けれども、我ぞ、振り・降りつつ、逝く)
歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る
「ももちどり…百千鳥…百千の小鳥たち…多くの鳥たち…大方の女たち…神話の時代から鳥の言の心は女、そのつもりになって古事記など読めばふにおちる」「さへづる…鳥が囀る…わけのわからない言葉でしゃべる…わけのわからない言葉を頻りに発する」「春…立春…春情」「物ごと…物事…もの毎…その度毎」「ふり…古り…振り…振動し…降り…お雨降り」「ゆく…行く…逝く」。
鳥たちの囀る春は、もの事が、新たになるけれども我は古びゆく。――歌の清げな姿。
大方の女たち、意味のわからない声を発する春情、ものくりかえし変わらないけれども、我がものは、降り、逝く。――心におかしきところ。
詠み人しらずながら、男の歌として聞いた。顕れ出たのは、はかないおとこの性(さが)。
さて、古今和歌集の歌言葉の「言の心や戯れの意味」が、藤原定家より数代後には、歌の家の秘伝となったようである。そして、門外不出となり一子相伝となって、秘伝は埋もれてしまったようである。「百千鳥」も、その一つらしい。
秘伝となる以前の、貫之の言う「言の心」や定家の父、俊成のいう「戯れの意味」を心得れば、大きく外れることなく、この「古今伝授三鳥」の一つなど、その意味は難なく解ける。「ももちどりさへづる春」が、女たちのどのような妖艶な情況を意味するか、今の人でも、おとななら、おわかりだろう。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本に依る)