帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第一 春歌上(25)わがせこが衣はる春雨ふるごとに

2016-09-22 18:47:17 | 古典

               


                             帯とけの「古今和歌集」

                    ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――


  
「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に歌論と言語観を学んで聞き直せば、隠れていた歌の「心におかしきところ」が顕れる。それは、言葉では述べ難いことなので、歌から直接心に伝わるよう紐解き明かす。


 「古今和歌集」巻第一 春歌上
25


         歌奉れと仰せられし時によみて奉れる    貫 之

わがせこが衣はる雨ふるごとに 野辺のみどりぞ色まさりける

(わが背の君の衣、洗い張る、春雨降る毎に野辺の緑の方は、色艶まさることよ……わが夫の、身と心、張る・春情、お雨降る毎に・色褪せ、野辺の女の見とりの方は、色情ますことよ)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「せこ…背子…背の君…夫」「衣…緑色の衣(六位の服)だろう…ころも…心身の換喩…身と心」「はる…張る…洗い張りする(その度に色褪せる)…ものが張る…春情」「春雨…春立の後に降る雨…春情により降るおとこ雨」「野辺…ひら野…未だ山ばでは無い所…常磐なるおんなの性(さが)…野原」「みどり…緑…ここは草葉…草の言の心は女…身取り・見とり…まぐあい」「ぞ…強調の意を表す…草葉はようやくなのだ…女はやっとのことさ」「色…色彩…色艶…色情」「ける…けり…気付き・詠嘆」。

 

夫の衣を洗い張りする妻、春雨に洗われた後に陽の光に照り映える草原の緑。――歌の清げな姿。

色褪せる性急なおとこの心身、お雨ふる毎に、山ばの無いひら野の女、ようやく、色ますことよ。――心におかしきところ。

 

古今集仮名序に「いにしえの代々の帝、春の花の朝、秋の月の夜ごとに、さぶらふ人々を召して、事につけつつ歌を奉らしめたまふ。あるは花をそふとて、たよりなき所にまどひ、あるは月を思ふとてしるべなき闇にたどれる心を見たまひて、賢し愚かなりと、しろしめしけむ」とある。狩場で雨宿り中かな「貫之よ、春雨、これを題にて、歌を詠め」と仰せられたので詠んだのだろう。

さてこの歌、花を添えようとして、色好みだけの、なよなととした所に惑うこともなく、程良く詠まれてあり、供の男どもも、「あるある」と共感し、笑える歌のように思えるが、帝は賢し愚かなりのどちらと思われただろうか。

 

今の国文学的常識は、「わが背こが衣はる」を「春」の序詞とし、春雨毎に野辺の草葉の緑のます風情とする。それだけではなさそうなので、解釈者の憶測の意見をそれぞれ加える。それをこの歌の解釈とする。このような、平安時代の歌論と言語観を全く無視した解釈が常識化して数百年経った。厚く覆われた学問的常識を払拭しなければならないが、今、ただ独りで出来る事は、和歌の真髄を差し示し、学問的常識の誤りに警鐘を鳴らし続けることである。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本に依る)