帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの拾遺抄 巻第一 春 (四十五)(四十六)

2015-02-11 00:08:07 | 古典

        



                     帯とけの拾遺抄



 「拾遺抄」十巻の歌の意味を、主に藤原公任の歌論に従って紐解いている。

紀貫之・藤原公任・清少納言・藤原俊成らの、平安時代の歌論や言語観を無視するか曲解して、この時代の和歌を解釈するのは無謀である。彼らの歌論によれば、和歌は清げな衣に包んで表現されてある。その姿を観賞するのではなく、歌の心を憶測するのでもなく、「歌の様(表現様式)を知り」、「言の心」を心得れば、清げな衣に「包まれた」歌の「心におかしきところ」が顕れる。人の心根である。言い換えれば「煩悩」であり、歌に詠まれたからには「即ち菩提(真実を悟る境地)」であるという。



 拾遺抄 巻第一 春 
五十五首


      天暦御時の歌合                    命婦少弐

四十五 あしひきの山がくれなるさくら花 ちりのこれりと風にしらすな

天暦(村上天皇)の御時の歌合の歌          (命婦少弐・小弐命婦とも)

(あの山陰に隠れるように咲く桜花、散り残っていると、春風に知らせるな……この山ばに隠れそうに咲くお花、散り残っていると、彼の・心風に知らせないで)

 

歌言葉の「言の心」と言の戯れ

「あしひきの…枕詞」「山…山ば」「さくら花…桜花…木の花…男花…咲いている情態のおとこ花」「ら…状態を表す」「風…花散らす春風…心に吹く風…飽き風など」「知らすな…知らせるな…(拾遺集では)知らるな…知られるな…いずれにしても、散り果ててしまわないようにと願う心」

 

歌の清げな姿は、桜花の散り果てるのを惜しむ人の気色。

心におかしきところは、はかないお花に執着する女の気色。


 貪欲な心が言の戯れによって顕れる。この煩悩は経書と同じく歌に詠まれたとき、煩悩即菩提であると藤原俊成は言うのだろう。

 

 

山とにくだり侍りけるに、井でといふ所にやまぶきのいとおもしろく
      さきて
侍りけるを見侍りて               恵京法師

四十六 山吹のはなのさかりに井でにきて このさとびとになりぬべきかな

大和に下ったときに、井手という所に山吹がとってもおもしろく咲い
      ていた
のを見て                    恵慶法師

(山吹の花の盛りに井手に来て、この里人になってしまってもいいかなあ……山ばで咲くお花の盛りに井の辺りに来て、この女人になってしまいそうだなあ)

 

歌言葉の「言の心」と言の戯れ

「山吹の花…花の名(低木ながら木の花)…名は戯れる。山吹く火山花、山ばに咲く花、山ばに咲くおとこ花」「井で…井手…所の名、井の方向、井の辺り」「井…女…おんな」「この…此処の…この情態の」「さとびと…里人…女人…さ門人」「里…女」「べき…べし…するのがよい…適当の意を表す…しそうだ…推量する意を表す」「かな…感動を表す…か・な…疑いを表す・感動を表す」

 

歌の清げな姿は、山吹の花の盛りの井手の感動的風景。

心におかしきところは、山吹きの盛りの時の女人を羨ましく思ってみせる法師。


 

上のような解釈が成立するには、「やまぶきの花」が「男花…おとこ花」でなければならない。それを実証する事も論理的証明も出来ないが、そのような意味でこの言葉が用いられていた例はある。言葉の孕む意味は使用のされ方に顕れる。

古今集春歌下、題しらず、よみ人しらずの三首を、女の歌として、そのつもりで聞いてみよう。


 今もかも咲きにほふらむたちばなの 小島の崎の山吹の花

(今もかなあ、咲き匂っているのでしょう、橘の小島の崎の・橘氏ゆかりの井手の地の、山吹の花……今ごろきっと、よそで・咲き匂っているのでしょう、立端の来じ間の先の、おとこ花)


 春雨ににほへる色もあかなくに 香さへなつかし山吹の花

(春雨に・濡れて、あざやかな色も飽きないのに、香さえ慕わしい山吹の花……春の情のお雨に染まる色情も飽きないのに、色香さえ、いつも親しんでいる、おとこ花)


 山吹はあやなな咲きそ花見むと 植けむきみがこよひ来なくに

(山吹は、むやみに咲くな、花見するつもりで植えた彼が、今宵、来ないのだから……おとこ花、むやみに咲かないでよ、お花みるつもりで、植えつけた木身が、小好い、まだ来ないのに)

 

 

『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。歌番もそのまま附した。群書類従に別系統の底本の原文がある、参考とした。