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帯とけの拾遺抄
「拾遺抄」十巻の歌の意味を、主に藤原公任の歌論に従って紐解いている。
紀貫之・藤原公任・清少納言・藤原俊成らの、平安時代の歌論や言語観を無視するか曲解して、この時代の和歌を解釈するのは無謀である。彼らの歌論によれば、和歌は清げな衣に包んで表現されてある。その姿を観賞するのではなく、歌の心を憶測するのでもなく、「歌の様(表現様式)を知り」、「言の心」を心得れば、清げな衣に「包まれた」歌の「心におかしきところ」が顕れる。人の心根である。言い換えれば「煩悩」であり、歌に詠まれたからには「即ち菩提(真実を悟る境地)」であるという。
拾遺抄 巻第一 春 五十五首
天暦御時の歌合 命婦少弐
四十五 あしひきの山がくれなるさくら花 ちりのこれりと風にしらすな
天暦(村上天皇)の御時の歌合の歌 (命婦少弐・小弐命婦とも)
(あの山陰に隠れるように咲く桜花、散り残っていると、春風に知らせるな……この山ばに隠れそうに咲くお花、散り残っていると、彼の・心風に知らせないで)
歌言葉の「言の心」と言の戯れ
「あしひきの…枕詞」「山…山ば」「さくら花…桜花…木の花…男花…咲いている情態のおとこ花」「ら…状態を表す」「風…花散らす春風…心に吹く風…飽き風など」「知らすな…知らせるな…(拾遺集では)知らるな…知られるな…いずれにしても、散り果ててしまわないようにと願う心」
歌の清げな姿は、桜花の散り果てるのを惜しむ人の気色。
心におかしきところは、はかないお花に執着する女の気色。
貪欲な心が言の戯れによって顕れる。この煩悩は経書と同じく歌に詠まれたとき、煩悩即菩提であると藤原俊成は言うのだろう。
山とにくだり侍りけるに、井でといふ所にやまぶきのいとおもしろく
さきて侍りけるを見侍りて 恵京法師
四十六 山吹のはなのさかりに井でにきて このさとびとになりぬべきかな
大和に下ったときに、井手という所に山吹がとってもおもしろく咲い
ていたのを見て 恵慶法師
(山吹の花の盛りに井手に来て、この里人になってしまってもいいかなあ……山ばで咲くお花の盛りに井の辺りに来て、この女人になってしまいそうだなあ)
歌言葉の「言の心」と言の戯れ
「山吹の花…花の名(低木ながら木の花)…名は戯れる。山吹く火山花、山ばに咲く花、山ばに咲くおとこ花」「井で…井手…所の名、井の方向、井の辺り」「井…女…おんな」「この…此処の…この情態の」「さとびと…里人…女人…さ門人」「里…女」「べき…べし…するのがよい…適当の意を表す…しそうだ…推量する意を表す」「かな…感動を表す…か・な…疑いを表す・感動を表す」
歌の清げな姿は、山吹の花の盛りの井手の感動的風景。
心におかしきところは、山吹きの盛りの時の女人を羨ましく思ってみせる法師。
上のような解釈が成立するには、「やまぶきの花」が「男花…おとこ花」でなければならない。それを実証する事も論理的証明も出来ないが、そのような意味でこの言葉が用いられていた例はある。言葉の孕む意味は使用のされ方に顕れる。
古今集春歌下、題しらず、よみ人しらずの三首を、女の歌として、そのつもりで聞いてみよう。
今もかも咲きにほふらむたちばなの 小島の崎の山吹の花
(今もかなあ、咲き匂っているのでしょう、橘の小島の崎の・橘氏ゆかりの井手の地の、山吹の花……今ごろきっと、よそで・咲き匂っているのでしょう、立端の来じ間の先の、おとこ花)
春雨ににほへる色もあかなくに 香さへなつかし山吹の花
(春雨に・濡れて、あざやかな色も飽きないのに、香さえ慕わしい山吹の花……春の情のお雨に染まる色情も飽きないのに、色香さえ、いつも親しんでいる、おとこ花)
山吹はあやなな咲きそ花見むと 植けむきみがこよひ来なくに
(山吹は、むやみに咲くな、花見するつもりで植えた彼が、今宵、来ないのだから……おとこ花、むやみに咲かないでよ、お花みるつもりで、植えつけた木身が、小好い、まだ来ないのに)
『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。歌番もそのまま附した。群書類従に別系統の底本の原文がある、参考とした。