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帯とけの「伊勢物語」
紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観で、在原業平の原作とおぼしき「伊勢物語」を読み直しています。
伊勢物語(四十六)いとうるはしき友ありけり
むかし、おとこ(昔、男…武樫おとこ)、いとうるはし友ありけり(とっても仲のよい友がいた…とっても潤わしき伴が身に付いていた)。かたときさらずあひ思ひけるを(片時も心離れることなく相思っていたが…片時も離れることなくおや子のように相思っていたが)。ひとのくにへいきけるを(友が・地方の国へ行ったので…伴が・女のくにへ入ったので)、いとあはれ(とっても哀れと…あゝ感激)と思って別れたのだった。つきひへて(月日が経って…突き引経て)、よこした文に、
「あさましくたいめんせで、月日のへにけること、わすれやし給にけんといたく思ひわびてなむ侍、世中の人の心は、めかるれば、わすれぬべき物にこそあめれ」
(あきれるほど対面せずに月日を経たことよ。私のこと、もしやお忘れになったのではと、ひどく思い悩んでいる。世間の人の心は、目離れすると忘れてしまうものらしいから……あきれるほど対面せず、突き引を経たことよ、ぼくをもしやお忘れになったのではと、ひどく思い悩んでいます。世間の男の心は、女離れすると、ぼくなど忘れてしまうのが当然の物であるらしので)と言ってきたので、(友に・伴に)詠んで遣る。
めかるともおもほえなくにわすらるゝ 時しなければおもかげにたつ
(目離れしたとは思えない、忘れる時さえないので、君の・面影が目前に立つ……女離れとは思えない、忘れる時なんてないので、女の・面影に立つ・ではないか)
貫之のいう「言の心」を心得、俊成のいう「言の戯れ」を知る
「うるはしき…麗しき…立派な…端正で美しい…人との関係が良い…仲良しの」「友…伴…身に伴ったもの」「あさましくたいめんせで…あきれるほどお会いしないで…嘆かわしいほど感どころに対面できずに」「わすれやし給にけん…お忘れになったのだろうか…見捨てられたのだろうか」「めかる…目離れる…遠く隔たる…女離れする」「め…目…女」。
仲の良い友との往復書簡と見えるのは、この話の「清げな姿」である。
いと麗しきわが伴が、女のせかいに入って弱気な便りを寄こした。そのおやの返歌である。これで気力を得て、和合なったかどうかは疑問である。余情には、おとこの本性の弱さが顕れている。
(2016・6月、旧稿を全面改定しました)