帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

新・帯とけの「伊勢物語」 (四十七)  おほぬさのひく手あまたになりぬれば

2016-06-02 19:14:09 | 古典

             



                         帯とけの「伊勢物語」


 

紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観で、在原業平の原作とおぼしき「伊勢物語」を読み直しています。


 

  伊勢物語(四十七)おほぬさのひく手あまたになりぬれば

 

 むかし、おとこ(昔、男…武樫おとこ)、ねんころにいかで(真心こめて何とかしたい…念を入れて逝かずにいたい)と思う女がいた。ところがこの男を、あだなり(浮気だ…頼りにできない)と聞いて、つれなさのみ(薄情さばかり…冷淡さだけが)増さりつつ、女は・言った。

おほぬさのひく手あまたになりぬれば  思へどえこそ頼まざりけれ

 (大幣のように、君を・引き寄せる、女の・手が数多となってしまっては、わたしは君を・思っているけれど、頼りにできないことよ……貴身の・大ぬさが、引く手、多数となってしまっては、思っていても、そんな枝なんて、頼りにできないわ)

 返し、男、

 おほぬさと名にこそ立てれ流ても  つゐによる瀬はありといふ物を

 (大幣だと評判は立っている、その大幣も・終に寄る川瀬はあるというものを・それが貴女なのに……大ぬさと何にのために、立っているか、流れても、終に頼る、背は・背の貴身、あるという物なのだ)

 

 

貫之のいう「言の心」を心得、俊成のいう「言の戯れ」を知る

「ねんごろに…心を込めて…念を入れて」「いかで…なんとかして…逝かずに」「で…手段方法などを示す…打消しを表す」。

「大ぬさ…大幣…不特定多数の人の手に触れられた後に川に流される幣…立派なおとこ」「ぬさ…神に手向けする幣…かみに手向けるもの…おとこ」「かみ…神…上…女」「え…得…枝…身の枝…おとこ」「よるせ…流れ寄る川の瀬…頼る背の君…頼れるおとこ」「川瀬…川の言の心は女」「背…夫…男…背は…背端…背の貴身…おとこ」「物を…ものよ…詠嘆を表す…物であることよ」「物…おとこ」。

 

女の心と身の両方に迫った(恋…乞い)歌。女の「つれなさ」を「恋しさ」に変えることは出来ただろうか。おとこのさがの弱点は、流れれば、伏す・垂る・折る・涸る・逝くという状態になるが、その時、わが物は頼るべき背端あるというのである。これが、女の身に伝われば、たぶん、「つれなさ」を変えられただろう。

 

この両歌は、そのまま、古今和歌集巻第十四 恋歌四にある。女の歌は、よみ人しらず。詞書「ある女の、業平の朝臣を、所定めずありきすと思ひて、よみてつかはしける」。返し、業平朝臣とある。率直に考えて、業平原作の「伊勢物語」から、古今和歌集に採り入れた歌である。

 

近世以来の真摯な理性は、歌言葉の戯れを縁語や掛詞と名づけて捉えたつもりになった。そのような言語観では、和歌や物語の余情を聞き取ることはできない。みだりがはしく(みだれがましく…乱雑に…好色に)戯れる歌言葉を、捉えそこなえば、清げな姿しか見えないので、その解釈は味気ないのである。

 (2016・6月、旧稿を全面改訂しました)