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帯とけの「伊勢物語」
紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観で、在原業平の原作とおぼしき「伊勢物語」を読み直しています。
伊勢物語(四十七)おほぬさのひく手あまたになりぬれば
むかし、おとこ(昔、男…武樫おとこ)、ねんころにいかで(真心こめて何とかしたい…念を入れて逝かずにいたい)と思う女がいた。ところがこの男を、あだなり(浮気だ…頼りにできない)と聞いて、つれなさのみ(薄情さばかり…冷淡さだけが)増さりつつ、女は・言った。
おほぬさのひく手あまたになりぬれば 思へどえこそ頼まざりけれ
(大幣のように、君を・引き寄せる、女の・手が数多となってしまっては、わたしは君を・思っているけれど、頼りにできないことよ……貴身の・大ぬさが、引く手、多数となってしまっては、思っていても、そんな枝なんて、頼りにできないわ)
返し、男、
おほぬさと名にこそ立てれ流ても つゐによる瀬はありといふ物を
(大幣だと評判は立っている、その大幣も・終に寄る川瀬はあるというものを・それが貴女なのに……大ぬさと何にのために、立っているか、流れても、終に頼る、背は・背の貴身、あるという物なのだ)
貫之のいう「言の心」を心得、俊成のいう「言の戯れ」を知る
「ねんごろに…心を込めて…念を入れて」「いかで…なんとかして…逝かずに」「で…手段方法などを示す…打消しを表す」。
「大ぬさ…大幣…不特定多数の人の手に触れられた後に川に流される幣…立派なおとこ」「ぬさ…神に手向けする幣…かみに手向けるもの…おとこ」「かみ…神…上…女」「え…得…枝…身の枝…おとこ」「よるせ…流れ寄る川の瀬…頼る背の君…頼れるおとこ」「川瀬…川の言の心は女」「背…夫…男…背は…背端…背の貴身…おとこ」「物を…ものよ…詠嘆を表す…物であることよ」「物…おとこ」。
女の心と身の両方に迫った(恋…乞い)歌。女の「つれなさ」を「恋しさ」に変えることは出来ただろうか。おとこのさがの弱点は、流れれば、伏す・垂る・折る・涸る・逝くという状態になるが、その時、わが物は頼るべき背端あるというのである。これが、女の身に伝われば、たぶん、「つれなさ」を変えられただろう。
この両歌は、そのまま、古今和歌集巻第十四 恋歌四にある。女の歌は、よみ人しらず。詞書「ある女の、業平の朝臣を、所定めずありきすと思ひて、よみてつかはしける」。返し、業平朝臣とある。率直に考えて、業平原作の「伊勢物語」から、古今和歌集に採り入れた歌である。
近世以来の真摯な理性は、歌言葉の戯れを縁語や掛詞と名づけて捉えたつもりになった。そのような言語観では、和歌や物語の余情を聞き取ることはできない。みだりがはしく(みだれがましく…乱雑に…好色に)戯れる歌言葉を、捉えそこなえば、清げな姿しか見えないので、その解釈は味気ないのである。
(2016・6月、旧稿を全面改訂しました)