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帯とけの「伊勢物語」
紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観で、在原業平の原作とおぼしき「伊勢物語」を読み直しています。
伊勢物語(四十九)うら若みねよげに見ゆる若草を
むかし、おとこ(昔、男…武樫おとこ)、妹が、いとをかしげなりけるを(とっても愛らしかったのを…ひどく犯しげな風情だったのを)、見をりて(見て居て…見降りて)、
うら若みねよげに見ゆるわか草を 人のむすばむことをしぞ思ふ
(若々しくて、心根よさそうに見える若草を、人の・他の男が、ちぎり結ぶことを惜しいと思う……こころ若くて、音・声、よげに見えるわが女を、他人がちぎり結ぶこと惜しいと思う)と、きこえけり(申し上げた…伝え聞いた)。
返し、
はつ草のなどめづらしき言の葉ぞ うらなくものを思ひけるかな
(初草がどうして好ましいとのお言葉よ、兄上は・隠すことなく、ものを思ったのねえ……初めての女が、どうして愛でるような言の葉をあゝ、わたしは・気遣うことなく、思いを・思ったのねえ)
貫之のいう「言の心」を心得て、俊成のいう「言の戯れ」を知る
「いもうと…妹…異母妹・同母妹」「をかし…魅力ある…犯し」「見をりて…見て居て…思って居て…見て折って…見て降りて」「見…覯…媾…まぐあい」「ね…根(おとこ)…寝(寝心地)…音…声(その時の声)」「わか草…若草…若い女…わが草…我が女」「草…言の心は女」「きこえけり…申し上げた…伝え聞いた(間接に聞いた)」。
「はつ草…初草…春の若草…初めての女」「めづらしき…珍しい…好ましい…愛でたい」「ことのは…言の葉…言の端…漏らした言葉」「うらなく…裏なく…隠さず…遠慮なく…心なく…気づかいせず…うっかりして」「もの…言い難きこと…あの時の思い」「かな…感動・感嘆を表す」。
「見る」の意味を「目で見る」「思う」と定めれば、琴でも弾く妹を可愛いと思いながら、良い音色を聞いている兄君のつぶやきに、妹が、「いま、兄君はみだらなことを思ったでしょう」と返したと読める。これが、この章の「清げな姿」である。
「見る」という言葉は、浮言綺語のように戯れる。「源氏物語」では「妻とする」「異性と関係を持つ」ことに用いられてあると、現代の古語辞典にもある。もとより、古代より、「見る」には、「みとのまぐあひ」「まぐあひ」という意味があったのである。にもかかわらず、底の意味を「下劣」なまでに解釈することができないのは、近代人の理性と倫理観と言語観と、解釈を学問にしたことが邪魔するのだろう。そのようなしがらみとは、全く無関係な千数百年前の物語なのである。しがらみのない文脈に立ち入って読み直している。
(2016・6月、旧稿を全面改定しました)