■■■■■
帯とけの「伊勢物語」
紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観で、在原業平の原作とおぼしき「伊勢物語」を読み直しています。
伊勢物語(四十八)むまのはなむけせんとて
むかし、おとこ有けり(昔、男がいた…武樫おとこがあった)。むまのはなむけ(馬の鼻向け…餞別の贈物)しょうと、人を待っていたのに、来なかったので、
今ぞしるくるしき物と人またむ さとをばかれずとふべかりけり
(今ぞ知る苦しいものと、人を待っているだろう、女の・里は、離れることなく訪れるべきだなあ…今ぞ・井間ぞ、知る苦しきものと、人を・人お、待っているだろうさ門、おは、涸れることなく、訪問するべきだなあ)
貫之のいう「言の心」を心得、俊成のいう「言の戯れ」を知る
「むまのはなむけ…馬の鼻向け…餞別…武間のはなむけ」「むま…うま…馬…言の心は男…おとこ」「はな…鼻…花…先端…土佐日記で貫之は『船路なれど馬の鼻向けす』と冗談を言うが、船なら『夫根のはなむけ…おとこの贈物』だろうということ」「こ…来…くる…ゆく…逝く」。
「いま…今…井間…おんな」「さと…里…女…さ門…おんな」「さ…美称」「かれず…離れず…間を置かず…涸れず」「とふ…問う…安否を尋ねる…訪れる…訪問する」「べかりけり…(訪問)しなければならない…(訪問)したほうがいい」「けり…気づき・詠嘆」。
よけいなことながら、さ門を、おとずれて贈るものを、白つゆ・白玉・白ゆきなどという。これは、おとこの情念のこもった贈物である。涸れずに贈りつづけなければならないのか、続けるのが適当なのかあと、詠嘆を伴うだろう。おとこの本性は、その程度のものであることを表している。
(2016・6月、旧稿を全面改訂しました)