帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第五 秋歌下 (304)風吹けば落つる (305)立ちとまり見てを

2017-10-23 19:23:06 | 古典

            

 

                       帯とけの「古今和歌集」

                      ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って、古今和歌集を解き直している。紀貫之は、「歌の表現様式を知り、言の心を心得る人は、大空の月を見るように、古を仰ぎて、今の歌を恋しくなるであろう」と仮名序で述べたのである。原文は「うたのさまをしり、ことの心をえたらむ人は、おほそらの月を見るがごとくに、いにしへをあふぎて、いまをこひざらめかも」とある。「うたのさま」を「歌の様」と聞き「歌の有様」、「ことの心」を「事の心」としか聞えなくなったならば、貫之の歌論の主旨は伝わらいばかりか、歌論でさえなくなる。

 

 

古今和歌集  巻第五 秋歌下304

 

池のほとりにて、もみぢの散るをよめる         躬 恒

 風吹けば落つるもみぢ葉水きよみ ちらぬかげさへ底に見えつつ

(池のほとりにて、もみじの散るのを詠んだと思われる・歌……逝けの辺りにて、も見じの散るを詠んだらしい・歌)   みつね

(風吹けば、散り落ちるもみじ葉、水が清いので 散ってしまえない葉の影さえ、底に映り見えている……心に厭き風吹けば、堕ちるも見じ端、をみな、乱れもせず心澄んでいるので、散ってしまえない陰小枝、どん底と思いつつ、見つづけている)

 

「さへ…さえ…小枝…おとこ」    「見る…思う」「見…覯…みとのまぐあひ…まぐあい」

 

風、散るもみぢ葉、池の水、晩秋の景色――歌の清げな姿。

も見じして、逝けの底に堕ちるおとこの哀しい性(さが)、女性に優しいみつねは、なをも見つづけるという――心におかしきところ。

 

 

古今和歌集  巻第五 秋歌下305

 

亭子院の御屏風の絵に、川わたらむとする人の紅葉の

散る木のもとに、馬をひかへて立てるをよませたまひけ

れば、つかうまつりける              (みつね)

立ちとまり見てを渡らむもみぢ葉は 雨とふるとも水はまさらじ

亭子院の御屏風の絵に、川を渡ろうとする人が、紅葉の散る木のもとに、馬を止めて立っているのを、詠ませ給うたので、詠んで差し上げた・歌 (みつね)

(立ち止まり、よく見てから渡りましょう、もみぢ葉は、雨と降っても、水嵩は増さないでしょうよ……立ちを、止めて、よく見て川を渡りましょう、も見じ端は、お雨となって降ろうとも、をみなの心地は増さない)

 

「見…覯…まぐあい」「もみぢ…も見じとなったおとこ」「葉…端…身の端…おとこ」「雨…おとこ雨」「川・水…言の心は女」。

 

川、もみじ葉、雨、晩秋の御屏風の絵の景色――歌の清げな姿。

女性は、よく見よう、途中で、も見じしてお雨と降らそうとも、をみなの心地は増さないよ――心におかしきところ。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)



帯とけの「古今和歌集」 巻第五 秋歌下 (302)もみぢ葉の流れ (303)山川に風の

2017-10-21 18:52:58 | 古典

            

 

                       帯とけの「古今和歌集」

                      ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って、古今和歌集を解き直している。紀貫之は、「歌の表現様式を知り、言の心を心得る人は、大空の月を見るように、古を仰ぎて、今の歌を恋しくなるであろう」と仮名序で述べたのである。原文は「うたのさまをしり、ことの心をえたらむ人は、おほそらの月を見るがごとくに、いにしへをあふぎて、いまをこひざらめかも」とある。「うたのさま」を「歌の様」と聞き「歌の有様」、「ことの心」を「事の心」としか聞えなくなったならば、貫之の歌論の主旨は伝わらいばかりか、歌論でさえなくなる。

 

 

古今和歌集  巻第五 秋歌下302


       龍田川のほとりにてよめる         坂上是則

もみぢ葉の流れざりせば龍田川 水の秋をば誰が知らまし

(龍田川のほとりにて詠んだと思われる・歌……断った川のほとりにて詠んだらしい・歌)さかのうへのこれのり

もみぢ葉が流れなければ、龍田川、水の秋をば誰が知るだろうか……も見じ端流れず、水もともに、流れなければ、多々川、断ったかは?、おんなの厭きを誰が知るだろう)

 

「龍田川…川の名…名は戯れる、断った川、絶えたかは?」「川…言の心は女…おんな」「水…言の心は女…をみな」。

 

晩秋、もみじ葉の浮かぶ川の景色――――歌の清げな姿。

至宝の山ば越えた後の、身も心も共に流れきれない、おんなとおとこの情景――心におかしきところ。

 

 

古今和歌集  巻第五 秋歌下303


        志賀の山越えにてよめる            春道列樹

山川に風のかけたるしがらみは 流れもあへぬもみぢなりけり

(志賀の山越えにて詠んだと思われる・歌……至賀の山ば越えにて詠んだらしい・歌) はるみちのつらき

山川に風のかけた、しがらみは、流れきれないもみじだったのだ……山ばのおんなに、心風のかけた、しがらみ・肢がらみは、流れきれない、も見じだったのだなあ)

 

「風…心に吹く風…あき風など」「しがらみ…柵…肢からみ…からみついたもの」「もみぢ…紅葉…も見じ」「なりけり…気付き…詠嘆」。

 

晩秋、もみじ葉の浮かぶ川の景色――歌の清げな姿。

至宝の山ば越えた後の、身も心も共に流れきれない、おんなとおとこの情景――心におかしきところ。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)


帯とけの「古今和歌集」 巻第五 秋歌下 (301)白波に秋の木の葉のうかべるを

2017-10-20 19:18:52 | 古典

            

 

                       帯とけの「古今和歌集」

                      ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って、古今和歌集を解き直している。紀貫之は、「歌の表現様式を知り、言の心を心得る人は、大空の月を見るように、古を仰ぎて、今の歌を恋しくなるであろう」と仮名序で述べたのである。原文は「うたのさまをしり、ことの心をえたらむ人は、おほそらの月を見るがごとくに、いにしへをあふぎて、いまをこひざらめかも」とある。「うたのさま」を「歌の様」と聞き「歌の有様」、「ことの心」を「事の心」としか聞えなくなったならば、貫之の歌論の主旨は伝わらいばかりか、歌論でさえなくなる。

 

                                                              

古今和歌集  巻第五 秋歌下301

 

寛平御時后宮歌合の歌          藤原興風

白波に秋の木の葉のうかべるを あまのながせる舟かとぞ見る

(寛平の御時、后宮の歌合の歌、秋歌二十番。右方) ふじはらのおきかぜ

(白波に秋の木の葉が浮かんでいるのを、漁師の流した小舟かと思って見ている……白汝身に、厭きの此の端が浮かんでいるのを、吾間の流した夫根かとぞ思い、見ている)。

 

晩秋の河口付近の情景――歌の清げな姿。

女の汝身間に、厭きの此の端が浮かぶのを、吾間の流した小夫根かと思い、見つづけている――心におかしきところ。

 

「波…なみ…汝身」「秋…飽き…厭き」「木の葉…木の端…この身の端…おとこ」「見る…目で見る…見て思う」「見…覯…媾…みとのまぐあひ」。

 


 この歌と合わされた左歌は、よみ人しらず(匿名で詠まれた女の歌として聞く)の歌であった。

散らねどもかねてぞ惜しきもみぢ葉は 今は限りの色と見つれば

(未だ散らないけれど、もとより惜しまれるもみじ葉は、今は限りの、色彩と思えば・なお惜しい……散り果てないけれど、前から惜しかった、貴身の・も見じ端は、今はこれっきりの色情と思われるので・なお惜しまれるわ)

 

「もみぢ葉…あきの葉…も見じ端…はてたおとこ」「色…色彩…色情」。

 

両歌は、性愛の果てにおける情況を、女の立場と男の立場で詠まれてある。合わされると「心におかしきところ」が増すようである。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による) 


帯とけの「古今和歌集」 巻第五 秋歌下 (300)神奈備の山をすぎゆく秋なれば 

2017-10-19 19:45:30 | 古典

            

 

                       帯とけの「古今和歌集」

                      ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って、古今和歌集を解き直している。紀貫之は、「歌の表現様式を知り、言の心を心得る人は、大空の月を見るように、古を仰ぎて、今の歌を恋しくなるであろう」と仮名序で述べたのである。原文は「うたのさまをしり、ことの心をえたらむ人は、おほそらの月を見るがごとくに、いにしへをあふぎて、いまをこひざらめかも」とある。「うたのさま」を「歌の様」と聞き「歌の有様」、「ことの心」を「事の心」としか聞えなくなったならば、貫之の歌論の主旨は伝わらいばかりか、歌論でさえなくなる。

 

                                                              

古今和歌集  巻第五 秋歌下300

 

かんなびの山を過ぎて龍田川をわたりける時に、

もみぢの流れけるをよめる    清原深養父

神奈備の山をすぎゆく秋なれば 龍田川にぞぬさはたむくる


      (神なびの山を過ぎて、龍田川を渡った時に、もみぢの流れたのを、詠んだと思われる・歌……かみなびの山ば過ぎて、たつた川を渡った時に、も見じの流れているのを、見て詠んだらしい・歌)    きよはらのふかやぶ

(神の鎮座する山を過ぎゆく、秋の季節なので、自ら・龍田川にぞ、紅葉のぬさ、たむけている……女のなびく山ばを過ぎ逝く、我が・厭きなので、断った川にぞ、色情豊かなもの、たむけている)。

 

「神…髪…上…女」「秋…飽き…厭き」「龍田川…川の名…名は戯れる。多々の川、断った川」「川…言の心は女…おんな」。

 

秋の季節が、もみじをぬさのように散らして、去り行く晩秋の景色――歌の清げな姿。

女、靡く山ばに送り届け、過ぎ逝く我が厭きなので、多々の色情断った川にぞ、ぬさはたむけたままよ――心におかしきところ。

 

深養父は、清少納言の曾祖父か祖父とも言われる。清少納言の言語観は先に述べた。歌についての思いも枕草子(5月の御精進のほど)の最後にある。「つつむことさぶらはずは、千の歌なりと、これよりなん出でもうでこましと、啓しつ」。翻訳すれば「包むことがなくていいのなら、これより、千の歌でも、詠み出せますと、中宮に・申し上げた」。公任のいう「心におかしきところ」(生の本能・エロス・煩悩)は千ほど持っていますが、「清げな姿」で、包むことが難しく苦手なのですと、言ったのである。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)


帯とけの「古今和歌集」 巻第五 秋歌下 (298)龍田姫たむくる神の(299)秋の山紅葉をぬさと

2017-10-18 19:54:17 | 古典

                   
                       帯とけの「古今和歌集」
                        ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

  平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って、古今和歌集を解き直している。紀貫之は、「歌の表現様式を知り、言の心を心得る人は、大空の月を見るように、古を仰ぎて、今の歌を恋しくなるであろう」と仮名序で述べたのである。原文は「うたのさまをしり、ことの心をえたらむ人は、おほそらの月を見るがごとくに、いにしへをあふぎて、いまをこひざらめかも」とある。「うたのさま」を「歌の様」と聞き「歌の有様」、「ことの心」を「事の心」としか聞えなくなったならば、貫之の歌論の主旨は伝わらいばかりか、歌論でさえなくなる。

  古今和歌集 巻第五 秋歌下 (298)

         秋の歌                       兼覧王          
 龍田姫たむくる神のあればこそ 秋の木の葉のぬさと散るらめ  
      
        (秋の歌……あきの歌)              かねみのおほきみ
 (龍田姫に、手向ける神があればこそ、秋の木の葉が、幣となって散るのだろう……龍田姫にたむける男神があるからこそ、厭きのこの端が、ぬさとなって散るのだろう)

  「ぬさ…弊…神にたむけるもの」「神…言の心は女…髪…上…うえ…女」「秋…飽き…厭き」。

  龍田姫に、もみぢの幣を手向ける男神、晩秋の幻想的風景――歌の清げな姿。
  男神の、も見じが、ぬさとなって散る、厭きの果てのありさま――心におかしきところ。


  古今和歌集 巻第五 秋歌下 (299)

        小野といふ所に住みはべりける時、もみぢを見て 詠める              
                                     つらゆき
  秋の山紅葉をぬさとたむくれば 住むわれさへぞ旅心地する

       (小野といふ所に住みはべりける時、もみぢを見て詠んだと思われる・歌……山ばでは無いおのというところに、済んだ時、も見じを思って、詠んだらしい・歌)   貫之
  (秋の山が、紅葉を幣として、神に・手向ければ、住む我さえも、旅心地する……厭きの山ば、も見じを、ぬさとして、女に・手向ければ、済む我れも小枝も、孤独で寂しい旅心地がする)。

  「すむ…住む…済む…澄む」「さへ…さえ…小枝…おとこの自嘲的表現」。

  秋の山が、紅葉を幣のように降り散らせば、住んでいる我も旅心地する――歌の清げな姿。
  厭きの山ばにて、も見じお、女に・幣としてものたむければ、済む我も、わが小枝も、孤独で寂しい心地がする――心におかしきところ。
 
  小野は、紀氏と縁のある惟嵩親王の出家された所、兼覧王はその御子(母は紀有常の妹)。

  (古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)