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帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って、古今和歌集を解き直している。紀貫之は、「歌の表現様式を知り、言の心を心得る人は、大空の月を見るように、古を仰ぎて、今の歌を恋しくなるであろう」と仮名序で述べたのである。原文は「うたのさまをしり、ことの心をえたらむ人は、おほそらの月を見るがごとくに、いにしへをあふぎて、いまをこひざらめかも」とある。「うたのさま」を「歌の様」と聞き「歌の有様」、「ことの心」を「事の心」としか聞えなくなったならば、貫之の歌論の主旨は伝わらいばかりか、歌論でさえなくなる。
古今和歌集 巻第五 秋歌下 (304)
池のほとりにて、もみぢの散るをよめる 躬 恒
風吹けば落つるもみぢ葉水きよみ ちらぬかげさへ底に見えつつ
(池のほとりにて、もみじの散るのを詠んだと思われる・歌……逝けの辺りにて、も見じの散るを詠んだらしい・歌) みつね
(風吹けば、散り落ちるもみじ葉、水が清いので 散ってしまえない葉の影さえ、底に映り見えている……心に厭き風吹けば、堕ちるも見じ端、をみな、乱れもせず心澄んでいるので、散ってしまえない陰小枝、どん底と思いつつ、見つづけている)
「さへ…さえ…小枝…おとこ」 「見る…思う」「見…覯…みとのまぐあひ…まぐあい」
風、散るもみぢ葉、池の水、晩秋の景色――歌の清げな姿。
も見じして、逝けの底に堕ちるおとこの哀しい性(さが)、女性に優しいみつねは、なをも見つづけるという――心におかしきところ。
古今和歌集 巻第五 秋歌下 (305)
亭子院の御屏風の絵に、川わたらむとする人の紅葉の
散る木のもとに、馬をひかへて立てるをよませたまひけ
れば、つかうまつりける (みつね)
立ちとまり見てを渡らむもみぢ葉は 雨とふるとも水はまさらじ
亭子院の御屏風の絵に、川を渡ろうとする人が、紅葉の散る木のもとに、馬を止めて立っているのを、詠ませ給うたので、詠んで差し上げた・歌 (みつね)
(立ち止まり、よく見てから渡りましょう、もみぢ葉は、雨と降っても、水嵩は増さないでしょうよ……立ちを、止めて、よく見て川を渡りましょう、も見じ端は、お雨となって降ろうとも、をみなの心地は増さない)。
「見…覯…まぐあい」「もみぢ…も見じとなったおとこ」「葉…端…身の端…おとこ」「雨…おとこ雨」「川・水…言の心は女」。
川、もみじ葉、雨、晩秋の御屏風の絵の景色――歌の清げな姿。
女性は、よく見よう、途中で、も見じしてお雨と降らそうとも、をみなの心地は増さないよ――心におかしきところ。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)