実は書いてみたものの・・叔父の病名が確定したらUPしようと思っていた記事です。
4月14日、母の一番下の妹が新潟から、施設にいる母に会いに来てくれました。
自分のやっていることの集まりが、東京であるので、その前に「ねぇちゃんに会いたい」言ってくれました。
旦那が駅まで迎えに行ってくれて、母と久々の再会。
母は、特養にその叔母と似た感じのワーカーさんがいて、なんだかこんがらがっている様でした。
母の妹弟は多いのですが、みんな遠い所にいるので、近くに住んでいる叔父以外は、母が施設に入っても面会に来てはくれませんでした。
実は・・それがとても悲しくもありましたが、それぞれの生活もあることですし、仕方ないのでしょうね。
来てくれた叔母は、私とも10歳くらいしか違わないのですが、とにかく忙しい人です。
実家のお寺を継いでいるので、お経を読みに歩き回りますし・・民生委員もしており・・多忙です。
おまけに、子供にお弁当を・・だったかの推進もしていて・・日々忙しく動き回っている叔母です。
でも、母が病院に入院しているときは何回も来てくれていましたし、在宅介護中も今回のように会いに来てくれていました。
その叔母から・・昨日、叔父の話を聞きました。
私が体調を崩していたこともあったのか、私は知らないでいました。
誰よりも頼りにしていた、叔父でした。
昨年、食道癌の手術をしてからは・・めっきり弱くなってしまった叔父でしたが、それは病気と闘ったのですから、仕方ないことだと思っていました。
二月には、ヨタヨタしながら特養にいる母に会いにも来てくれました。
特養からも、母に叔父の声を聞かせたくて、私はよく叔父に電話をしていました。
3月の14日・・一ヶ月前になりますが、それが母と叔父との最後の会話になってしまいました。
あの時も母の話を、根気強く聞いてくれていた叔父だったんです。
その後は、お散歩に出ることが多くて・・叔父に電話をすることを、何故かしていませんでした。
でも、元気でいると思っていたのです。
母とは本当に仲が良く、私が小さい頃からいつも母の近くにいたように思います。
子供のいない夫婦なので、私や私の娘達のことも、とても可愛がってくれました。
母がこうなってしまってからは、仕事の途中でも時間があると、母に会いに来てくれていた伯父でした。
どうしようか迷いましたが、叔母の携帯に電話をしました。
一週間に一度は、電話をしていたのに・・何故なのか・・この数週間はかけていなかった私。
その数週間に、叔父の様子がおかしくなっていたなんて。
「久美子ちゃん・・おじちゃん、頭が壊れちゃったの」
叔母の第一声でした。
叔母に聞いたことは言わず「どうしたの?何があったの?」と・・聞いたところ・・。
「お彼岸に、お墓参りに行けなかったの・・いつも必ず行っていたのに、歩けないって」
それが始まりだったようです。
お散歩に出かけた叔父が、いつまでたっても帰って来ず・・心配した叔母が携帯で場所を確認して、迎えに行ったところ、足が前に出なかったようです。
手をつないで自宅に戻り・・歩き方があまりにもおかしいということで、叔父が癌でかかっていた近くの病院へ連れて行ったそうです。
確かに、叔父の歩き方・・少し違っていました。
一歩づつではなく・・ちょこちょこと小刻みに歩く感じでした。
家の中で、よく転ぶんだと話していたことも・・・
連れて行った病院では、確実な答えが出せないとのことで、別の病院の神経内科の紹介状をもらい、再び病院へ。
おそらく・・レビー小体型認知症ではないかと・・身体的に診て、パーキンソンも併発しているのではないかと言われたそうです。
そして再度、大学病院への紹介状をもらい、MRIや核医学検査を経て・・病名が確定しました。
ある日突然・・・
晴天の霹靂。