今日は、母の脳外科の主治医に、挨拶に行って来ました。
今日が、一ヶ月に一度の、母の受診日だったからです。
前以て、母が亡くなった事と、ご挨拶をしたい由を、病院へ電話しておきました。
電話口に出た受付の女性は、いつもなんだか不機嫌な人でした。
その日も、名前を告げると、途端に不機嫌な声。
何故でしょうか?
私の事を、嫌っているのかなぁ、、、と、いつもそんな感じでした。
けれど、母の死を告げると、今までの不機嫌な感じが消え、予約時間にいらしてくださいと、言ってくれました。
病院に着いて、受け付けには、その女性。
もう、いない母の診察券で、順番を取りました。
カウンターの後ろに回り、今までのお礼と共に、ささやかな手土産を渡しました。
程なく、母の名前が呼ばれました。
既に、母の死をご存知の看護師さんが、座って待っている私に気づき、おそらく、カルテを先に置いてくださったんだと思います。
先生も、母が亡くなった話を聞いていたようでした。
救急車に運ばれたのが、前回の受診の、三日後だったこと。
前日に、昼ご飯の介助をした時に、飲み込みが悪かったこと。
運ばれた先が、車で一時間弱の、津久井だったこと。
次の日には、地元の、特養の提携病院に、また一時間掛けて転院したこと。
六日間、頑張ってくれたこと、死に目には会えなかったこと、、、などを話しました。
最初に運ばれた病院で撮った、CTのコピーを見て頂きました。
肺の片側が、既に機能していなかっただろうね。
肺に水も溜まっているね。
多分、呼吸器が無かったら、自力で息は吸えていなかったかもしれないね。
呼吸が出来ないのは、苦しかったろうね、、、と、改めて言われ、、、やっと、あの時の状態がわかりました。
私は、何もわかっていなかった。
確かに、同じ事を言われていたのに。
そんなにも悪いことを、わからなかったんです。
何故なんだろう。
今なら、わかるのに。
母は、六日間、私が思っていたより、ずっと悪かったのに。
あの時、医師に同じ事を言われていたのに、私は大丈夫な気がして、母を置いて帰ってきてしまいました。
母のそばにいる事が、辛かったからです。
逃げてしまいました。
特養に母をお願いした時と同じ。
結局、逃げてしまいました。
違う。
違わない。
違う。
叔父が、同じような肺炎になった時があって、今は元気にしているから、きっと母もそうなるだろうと、勝手に思っていた。
退院するときは、胃瘻になるんですかね、、、なんて、医師に聞いていた私です。
今なら、帰ったり、しないのに。
死んでしまうと知っていたら、帰ったりしなかったのに。
違う。
確かに、覚悟をしてたはず。
10年間、お世話になった医師。
いつも優しくて、穏やかな先生。
母の頭の中の動脈瘤に、コイルを入れるカテーテル手術をした先生。
術中に、脳梗塞になり、脳圧が上がり、頭蓋骨の一部を、切り外した先生。
きちんとお礼をして、帰宅しました。
母は、10年前に死なず、10年後に死んだだけ。
誰に生かされたんだろう。
家族に?
自分の生きる力に?
母は、幸せだったのかなぁ。
まだ、生きたかったのかなぁ。
母が亡くなったことが、まだ現実じゃないような気がして、それでいいと思ってました。
毎日、アレコレやらなきゃいけないことに忙しくて、普通に笑って過ごしながら、母がもういない事に気づいては泣いています。
困ります。
もう、骨になってしまった母だから、何をどう考えても、仕方ないって諦めて、前を向いて、私は私で生きていますが、やはりまだ、涙か勝手に出てきます。
父も、多分、そんなで、必死に生きてる感じです。
笑いながら、泣いているんでしょうか。
たまに固まります。
ちゃんと泣いてないとか、現実から逃げてるとかじゃ、ありません。
今日はまた、悲しみが押し寄せて、ブログを開きました。
わけわからない文章ですね。
母は、もう生きてはいない。
それが、現実です。
今更後悔しても、仕方ないし、、、後悔することは、わかってました。
ちゃんと、わかっています。
ただ、今日は、改めて、苦しかったろうねと、思いがそこで止まってしまって、どうしょうもなくて。
大丈夫。
書いていたら、少し落ち着いてきました。
写真の笑っている母が、大丈夫って言ってくれたならいいのにな。
私には、まだ死んでから一度も会いに来てくれません。
あれ?
そんなん、可笑しいですね。
やっぱり、すごく寂しい。
悲しい。
辛いなぁ。
今日が、一ヶ月に一度の、母の受診日だったからです。
前以て、母が亡くなった事と、ご挨拶をしたい由を、病院へ電話しておきました。
電話口に出た受付の女性は、いつもなんだか不機嫌な人でした。
その日も、名前を告げると、途端に不機嫌な声。
何故でしょうか?
私の事を、嫌っているのかなぁ、、、と、いつもそんな感じでした。
けれど、母の死を告げると、今までの不機嫌な感じが消え、予約時間にいらしてくださいと、言ってくれました。
病院に着いて、受け付けには、その女性。
もう、いない母の診察券で、順番を取りました。
カウンターの後ろに回り、今までのお礼と共に、ささやかな手土産を渡しました。
程なく、母の名前が呼ばれました。
既に、母の死をご存知の看護師さんが、座って待っている私に気づき、おそらく、カルテを先に置いてくださったんだと思います。
先生も、母が亡くなった話を聞いていたようでした。
救急車に運ばれたのが、前回の受診の、三日後だったこと。
前日に、昼ご飯の介助をした時に、飲み込みが悪かったこと。
運ばれた先が、車で一時間弱の、津久井だったこと。
次の日には、地元の、特養の提携病院に、また一時間掛けて転院したこと。
六日間、頑張ってくれたこと、死に目には会えなかったこと、、、などを話しました。
最初に運ばれた病院で撮った、CTのコピーを見て頂きました。
肺の片側が、既に機能していなかっただろうね。
肺に水も溜まっているね。
多分、呼吸器が無かったら、自力で息は吸えていなかったかもしれないね。
呼吸が出来ないのは、苦しかったろうね、、、と、改めて言われ、、、やっと、あの時の状態がわかりました。
私は、何もわかっていなかった。
確かに、同じ事を言われていたのに。
そんなにも悪いことを、わからなかったんです。
何故なんだろう。
今なら、わかるのに。
母は、六日間、私が思っていたより、ずっと悪かったのに。
あの時、医師に同じ事を言われていたのに、私は大丈夫な気がして、母を置いて帰ってきてしまいました。
母のそばにいる事が、辛かったからです。
逃げてしまいました。
特養に母をお願いした時と同じ。
結局、逃げてしまいました。
違う。
違わない。
違う。
叔父が、同じような肺炎になった時があって、今は元気にしているから、きっと母もそうなるだろうと、勝手に思っていた。
退院するときは、胃瘻になるんですかね、、、なんて、医師に聞いていた私です。
今なら、帰ったり、しないのに。
死んでしまうと知っていたら、帰ったりしなかったのに。
違う。
確かに、覚悟をしてたはず。
10年間、お世話になった医師。
いつも優しくて、穏やかな先生。
母の頭の中の動脈瘤に、コイルを入れるカテーテル手術をした先生。
術中に、脳梗塞になり、脳圧が上がり、頭蓋骨の一部を、切り外した先生。
きちんとお礼をして、帰宅しました。
母は、10年前に死なず、10年後に死んだだけ。
誰に生かされたんだろう。
家族に?
自分の生きる力に?
母は、幸せだったのかなぁ。
まだ、生きたかったのかなぁ。
母が亡くなったことが、まだ現実じゃないような気がして、それでいいと思ってました。
毎日、アレコレやらなきゃいけないことに忙しくて、普通に笑って過ごしながら、母がもういない事に気づいては泣いています。
困ります。
もう、骨になってしまった母だから、何をどう考えても、仕方ないって諦めて、前を向いて、私は私で生きていますが、やはりまだ、涙か勝手に出てきます。
父も、多分、そんなで、必死に生きてる感じです。
笑いながら、泣いているんでしょうか。
たまに固まります。
ちゃんと泣いてないとか、現実から逃げてるとかじゃ、ありません。
今日はまた、悲しみが押し寄せて、ブログを開きました。
わけわからない文章ですね。
母は、もう生きてはいない。
それが、現実です。
今更後悔しても、仕方ないし、、、後悔することは、わかってました。
ちゃんと、わかっています。
ただ、今日は、改めて、苦しかったろうねと、思いがそこで止まってしまって、どうしょうもなくて。
大丈夫。
書いていたら、少し落ち着いてきました。
写真の笑っている母が、大丈夫って言ってくれたならいいのにな。
私には、まだ死んでから一度も会いに来てくれません。
あれ?
そんなん、可笑しいですね。
やっぱり、すごく寂しい。
悲しい。
辛いなぁ。
気持ちが折れそうだった私もこのブログでまだまだやり残してる事が沢山あると気がつきました。これからは家族の想いや利用者様の気持ちに寄り添ってこの仕事を続けて行きたいと思います。