
今日は・・ひたすら長い私の回想みたいなブログです。
なので・・興味の無い方や、忙しい方は・・飛ばしてしまってくださいね。
バーちんのショートの前日。
夕飯を食べている時に電話が鳴った。
私が20歳まで住んでいた場所の・・近所の模型屋さんのオバちゃんからだった。
「久美ちゃん、絹江さんが亡くなったの」
私は何を言っているのか・・わからなかった。
それくらい、驚いて・・動揺して・・何が何だかわからなかった。
私が産まれたのは、東京の世田谷、高級住宅街と呼ばれる駅の・・隣の隣の駅。
各駅停車しか停まらない、小さな駅の町。
今は高架が出来て、様変わりした駅前だけど。
踏み切りを越えた商店街で、父と母とで洋服屋さんをやっていたのだった。
ブティックなんて代物ではない昔ながらの洋品店。
長屋風の作りで、小さなお店の後ろが小さな10畳くらいの部屋と台所があった。
そこに弟を6歳で亡くすまで、4人で生活していたのだった。
二階はアパートになっていて、中学になってからはお店の真上に4畳一間の部屋を私の部屋として借りてもらっていた。
一チョ前に中学生でアパート暮らしをしてた私だったのだ。
なんて・・夜は怖くて、結局お店の後ろの部屋で父母と一緒に寝てたけど。
受験勉強も結局、自分の部屋ではやらないで・・お店のショーケースを机代わりにラジオで深夜放送聞きながら・・やってたっけ。
何しろ、お店には唯一クーラーがあったから。
オールナイトニッポンやセイヤング・・大石五郎のコッキーポップが大好きだった。ギター少女だったのだ。
高校は歩いて行ける都立だったので、学校帰りに友達がいっつも遊びに来てた。
ただただ楽しい高校生活、男女関係なく家に遊びに来ていたし、バーちんは皆と仲良しで、おやつを山ほど二階の部屋に運んできてくれてた。
今考えたら・・こっそり部屋を抜け出して、夜遊びだって出来そうな環境だったのに・・一度もそんなことしなかった私は偉い!ナンテ。
もっとも商店街を夜遅くフラフラしてたら、絶対に誰かに見られて御用になってただろうけど。
お風呂だって無いのだ。歩いて近くの銭湯まで通ってた。
それこそ・・神田川みたいに、洗面器と石鹸、タオル持って。
その頃は銭湯なんて普通に皆が利用していて、満員で脱衣籠のない時もあったっけ。
貧乏だったけど・・不思議とそう思わないでいた私って、よっぽどの脳天気。
もしくは・・そう感じないくらい・・父母は私に愛情を注いでくれていたんだろうな。
弟を亡くして・・私は箱入り(底なし?)一人娘になってたのだから。
類焼(なんと・・二階のアパートの住人の寝煙草)で洋品店を畳むまでの20年近くを、三丁目の夕日・・のような、二丁目の商店街で過ごしていたのだった。
古き良き時代・・本当にそんな感じの町だった。
当然、駄菓子屋さんもあったし、近くの神社には「紙芝居」も来てた。
一円玉を集めて「型抜き」だってしたし、当然オカッパ頭の久美ちゃんだった。
私が母のお腹に入っているときに、父母がこの土地に引っ越して来た。
当時母は25歳、父は30歳。
その前は、大田区で洋品店を営んでいたのだが、隣の天麩羅屋さんの類焼で、最初の洋品店を焼かれてしまった父母なのだった。
結局、2度のもらい火で洋品店経営を諦めて相模原に家を買い・・サラリーマンになった父だったけれど。
保険金なんてものは、借家で全然入らなかったから、その頃はまだド田舎の相模原に引っ越して、現在もくらしてる。
沢山苦労してきたんだ。
それでも這い上がって頑張ってきた父母だった。
私が結婚4年後に、旦那が父母の家を建て直して・・同居生活開始した。
一見大きく見えるらしいけど・・実は小さ~な家。
でも・・考えたら、あの頃住んでいた部屋の何十倍もあるのだ。
お風呂だって手足を伸ばせる・・お風呂にテレビもついてるのさ!(頂き物の)
小さい頃は商売をやってる日曜のない我が家が、なんとなく普通とは違ってる気がしていて、サラリーマンの家の「パパのお土産」や「ボーナス」「昇進」なんてものを羨ましいような気もしていたのだけど。
サラリーマンの妻になって、それはそれで大変だとわかったけれど・・。
その商店街で、下駄屋さんをしていたのが「絹江さん」だった。
一方通行の細い道を挟んで、我が家のお店の斜め前にお店を構えていた。
我が家とは違って、おじちゃんは会社員でもあって・・結構大きい家だった。
父母が問屋さんに仕入れに行く時は、私は「絹江さん家」にお世話になっていた。バーちんにとって、絹江さんは新潟の両親や姉妹弟と同じ・・もしかしたら、それ以上に深い絆を持っている人だったのだ。
弟が亡くなった時も、二度目の火事の時も・・いつも絹江さんが私達家族の側にいてくださった。
自分のお店の商売を休んで、焼け残った商品を陳列させてくれて・・少しでも現金を稼げるようにと・・長い時間店先を貸してくださった。
その時、私は高校を卒業してタイプの専門学校に通っていたのだけれど、高校時代の友人が毎日入れ替わりに学校を休んで、洋服を売りさばくのを手伝ってくれてたっけ。
私の成人式の時は、中村さんに晴れ着を見せに行ったし、その商店街の写真屋さんで七五三に見えそうな・・晴れ着の撮影と着付けをした。
わざわざ相模原からその町で、成人式の準備をしに行ったのだ。
成人式の式典も、世田谷区役所に・・。招待状もないのにね、ちゃっかり友達と参加させて頂いた。
晴れ着を見せて回って・・元近所のオバちゃんたちに、お祝い一杯貰って歩いた。
そうそう・・髪は女優さんの田中律子さんのお父さんに結ってもらったのだ。
「リッちゃん」は、この町出身のスターなのだ。
それから絹江さんは、私の結婚式にも、遠く新横浜まで来て下さった。
一番前の親戚と同じ場所に席を用意した。心から祝福してくれて・・母の側で笑ってくださっていた。
引っ越してきた今の家のある相模原の近所に絹江さんの長男が住んでいて・・。
というか、住んでいるからここに来たのかなぁ?と思うくらいに絹江さんは私達家族にとって、親戚以上に深い親しい方だった。
一ヶ月に一度は、バーちんは絹江さんに会いに行っていたし・・絹江さんも何かあると我が家を訪ねて来て下さってた。
娘の成長の節目には、必ずお祝いをして下さった・・。
絹江さんは84歳、去年までは一人暮らしをしていた。
加齢による不自由はあったようだけど、それでも元気でひ孫二人と遊んでいたそうだ。
息子2人と娘1人、皆ビックリするくらいの出世をして、一緒に暮らそうと言っていたらしいのだけど、介護保険を使いながら・・一人暮らしを続けていた。
あの町だから、出来たことなのかもしれないし、そうしたかったんだと思う。
バーちんが動脈瘤の血管内手術をした去年の10月末・・絹江さんは家で骨折をしてしまった。
バーちんが大学病院に入院中・・絹江さんは別の大学病院に入院していた。
そして・・2ヶ月の入院で、認知症が出てしまったらしい。
骨折は治ったものの、認知は進んで・・。
それでもなんとか自宅介護を望んだけれど、叶わなかったようだ。
結局子供達は絹江さんを次男の家の近くの「グループホーム」に預けたのだった。
詳しい経過はわからないけれど、自宅に住んでいる絹江さんの長男が、バーちんのお見舞い方々様子を話しに来てくださっていた。
・・お互い頑張って、必ず会えるようにしたいですねって・・そんな話をしていたのに。
バーちんも、いつもいつも絹江さんのことを気にしていたから、リハ病院にいる時に似たような感じのおばーさんは皆「絹江さん」になっていた。
そんな絹江さんが・・亡くなってしまった。
前日まで元気だったのに、突然40度近い熱を出して・・肺炎と、心筋梗塞だったそうだ。病院に運ばれて2時間で心臓が止まってしまったのだって。
電話を下さったオバちゃんは「お母さんには言わないように・・」って。
誰もがそう言ってくださったそうだ。
絹江さんの家族も、知らせることを躊躇っていたそうだ。
それでも、まわりの誰もが知っている親戚以上の関係だったから・・私のところに電話が入ったのだった。
私も・・バーちんには言えない。
絹江さんが亡くなったこと・・絶対言えない。
バーちん・・もちろん亡くなった事でショックを受けるだろうけれど・・亡くなった絹江さんの最期に会えないこと・・それが何より辛いことだと思う。
もし、バーちんが歩けたら・・おそらく何をおいても飛んでいった。
誰よりも先に・・絹江さんの最期の時を側にいて過ごしたかったと思う。
でも、今のばーちんには、どんな無理をしても・・お通夜や葬儀に参列することは出来ない。
どうにかして、会いに連れて行ってあげたかった。
でも・・車でもここからは2時間以上かかってしまう。
まして、いつでも渋滞する国道の狭間の町。
それ以前に、今のバーちんの状態では精神的にも耐えられないだろう。
バーちんには何も言わないまま、バーちんをショートに送り出した。
その足で、私だけ・・世田谷の絹江さんのお宅にお焼香に行ってきた。
腰を痛めている私を心配して、旦那が車で送ってくれた。
片道だけで2時間以上。バーちんの帰ってくる今日がお葬式。
式場は自宅ではなく、さらに遠い場所。
参列が出来ないので、とにかく一目だけでも顔を見たかった。
絹江さんは昔のままの美人で・・とても安らかに眠っていた。
いろんなことが蘇って、また泣いてばかりの一日だった。
何が悲しいのか・・よくわからなくなるまで泣いていた。
でも・・私は私の今を生きなきゃ。
バーちんも、しっかり生きてもらわなきゃだ。
バーちんには、一生嘘を付いていく。
絹江さんは、ホームで元気にやっていると。
昔住んでた町は、面影を探せないくらいに変わっていた。
通いなれた通学路でさえ、なんだか全然覚えてなくて。
道案内が旦那に出来なくて・・散々バカにされちゃったけど、都会は様変わりがとてつもなく激しい。
今度この町に来るのはいつになるかなぁ~。
そして・・絹江さんの亡くなった日の朝、我が家のカメちゃん達が死んでいた。
昼間の暑さのせいなんだろうか・・日陰を作っていたのだけれど・・。
私はもう、竜宮城には行けなくなったなぁ・・・。
なんだかよくわからない日記になってしまったなぁ~
長々と・・読んでくださった方・・ごめんなさい。
限りなく・・私の回想になってしまいました。
そろそろバーちんがショートから帰ってきます。
今日は、なんと!ジィーもバーちんと同じ場所のディに見学兼ねて行きました。
さぁ・・私も始動開始!!
頑張らなきゃなぁ。
なので・・興味の無い方や、忙しい方は・・飛ばしてしまってくださいね。
バーちんのショートの前日。
夕飯を食べている時に電話が鳴った。
私が20歳まで住んでいた場所の・・近所の模型屋さんのオバちゃんからだった。
「久美ちゃん、絹江さんが亡くなったの」
私は何を言っているのか・・わからなかった。
それくらい、驚いて・・動揺して・・何が何だかわからなかった。
私が産まれたのは、東京の世田谷、高級住宅街と呼ばれる駅の・・隣の隣の駅。
各駅停車しか停まらない、小さな駅の町。
今は高架が出来て、様変わりした駅前だけど。
踏み切りを越えた商店街で、父と母とで洋服屋さんをやっていたのだった。
ブティックなんて代物ではない昔ながらの洋品店。
長屋風の作りで、小さなお店の後ろが小さな10畳くらいの部屋と台所があった。
そこに弟を6歳で亡くすまで、4人で生活していたのだった。
二階はアパートになっていて、中学になってからはお店の真上に4畳一間の部屋を私の部屋として借りてもらっていた。
一チョ前に中学生でアパート暮らしをしてた私だったのだ。
なんて・・夜は怖くて、結局お店の後ろの部屋で父母と一緒に寝てたけど。
受験勉強も結局、自分の部屋ではやらないで・・お店のショーケースを机代わりにラジオで深夜放送聞きながら・・やってたっけ。
何しろ、お店には唯一クーラーがあったから。
オールナイトニッポンやセイヤング・・大石五郎のコッキーポップが大好きだった。ギター少女だったのだ。
高校は歩いて行ける都立だったので、学校帰りに友達がいっつも遊びに来てた。
ただただ楽しい高校生活、男女関係なく家に遊びに来ていたし、バーちんは皆と仲良しで、おやつを山ほど二階の部屋に運んできてくれてた。
今考えたら・・こっそり部屋を抜け出して、夜遊びだって出来そうな環境だったのに・・一度もそんなことしなかった私は偉い!ナンテ。
もっとも商店街を夜遅くフラフラしてたら、絶対に誰かに見られて御用になってただろうけど。
お風呂だって無いのだ。歩いて近くの銭湯まで通ってた。
それこそ・・神田川みたいに、洗面器と石鹸、タオル持って。
その頃は銭湯なんて普通に皆が利用していて、満員で脱衣籠のない時もあったっけ。
貧乏だったけど・・不思議とそう思わないでいた私って、よっぽどの脳天気。
もしくは・・そう感じないくらい・・父母は私に愛情を注いでくれていたんだろうな。
弟を亡くして・・私は箱入り(底なし?)一人娘になってたのだから。
類焼(なんと・・二階のアパートの住人の寝煙草)で洋品店を畳むまでの20年近くを、三丁目の夕日・・のような、二丁目の商店街で過ごしていたのだった。
古き良き時代・・本当にそんな感じの町だった。
当然、駄菓子屋さんもあったし、近くの神社には「紙芝居」も来てた。
一円玉を集めて「型抜き」だってしたし、当然オカッパ頭の久美ちゃんだった。
私が母のお腹に入っているときに、父母がこの土地に引っ越して来た。
当時母は25歳、父は30歳。
その前は、大田区で洋品店を営んでいたのだが、隣の天麩羅屋さんの類焼で、最初の洋品店を焼かれてしまった父母なのだった。
結局、2度のもらい火で洋品店経営を諦めて相模原に家を買い・・サラリーマンになった父だったけれど。
保険金なんてものは、借家で全然入らなかったから、その頃はまだド田舎の相模原に引っ越して、現在もくらしてる。
沢山苦労してきたんだ。
それでも這い上がって頑張ってきた父母だった。
私が結婚4年後に、旦那が父母の家を建て直して・・同居生活開始した。
一見大きく見えるらしいけど・・実は小さ~な家。
でも・・考えたら、あの頃住んでいた部屋の何十倍もあるのだ。
お風呂だって手足を伸ばせる・・お風呂にテレビもついてるのさ!(頂き物の)
小さい頃は商売をやってる日曜のない我が家が、なんとなく普通とは違ってる気がしていて、サラリーマンの家の「パパのお土産」や「ボーナス」「昇進」なんてものを羨ましいような気もしていたのだけど。
サラリーマンの妻になって、それはそれで大変だとわかったけれど・・。
その商店街で、下駄屋さんをしていたのが「絹江さん」だった。
一方通行の細い道を挟んで、我が家のお店の斜め前にお店を構えていた。
我が家とは違って、おじちゃんは会社員でもあって・・結構大きい家だった。
父母が問屋さんに仕入れに行く時は、私は「絹江さん家」にお世話になっていた。バーちんにとって、絹江さんは新潟の両親や姉妹弟と同じ・・もしかしたら、それ以上に深い絆を持っている人だったのだ。
弟が亡くなった時も、二度目の火事の時も・・いつも絹江さんが私達家族の側にいてくださった。
自分のお店の商売を休んで、焼け残った商品を陳列させてくれて・・少しでも現金を稼げるようにと・・長い時間店先を貸してくださった。
その時、私は高校を卒業してタイプの専門学校に通っていたのだけれど、高校時代の友人が毎日入れ替わりに学校を休んで、洋服を売りさばくのを手伝ってくれてたっけ。
私の成人式の時は、中村さんに晴れ着を見せに行ったし、その商店街の写真屋さんで七五三に見えそうな・・晴れ着の撮影と着付けをした。
わざわざ相模原からその町で、成人式の準備をしに行ったのだ。
成人式の式典も、世田谷区役所に・・。招待状もないのにね、ちゃっかり友達と参加させて頂いた。
晴れ着を見せて回って・・元近所のオバちゃんたちに、お祝い一杯貰って歩いた。
そうそう・・髪は女優さんの田中律子さんのお父さんに結ってもらったのだ。
「リッちゃん」は、この町出身のスターなのだ。
それから絹江さんは、私の結婚式にも、遠く新横浜まで来て下さった。
一番前の親戚と同じ場所に席を用意した。心から祝福してくれて・・母の側で笑ってくださっていた。
引っ越してきた今の家のある相模原の近所に絹江さんの長男が住んでいて・・。
というか、住んでいるからここに来たのかなぁ?と思うくらいに絹江さんは私達家族にとって、親戚以上に深い親しい方だった。
一ヶ月に一度は、バーちんは絹江さんに会いに行っていたし・・絹江さんも何かあると我が家を訪ねて来て下さってた。
娘の成長の節目には、必ずお祝いをして下さった・・。
絹江さんは84歳、去年までは一人暮らしをしていた。
加齢による不自由はあったようだけど、それでも元気でひ孫二人と遊んでいたそうだ。
息子2人と娘1人、皆ビックリするくらいの出世をして、一緒に暮らそうと言っていたらしいのだけど、介護保険を使いながら・・一人暮らしを続けていた。
あの町だから、出来たことなのかもしれないし、そうしたかったんだと思う。
バーちんが動脈瘤の血管内手術をした去年の10月末・・絹江さんは家で骨折をしてしまった。
バーちんが大学病院に入院中・・絹江さんは別の大学病院に入院していた。
そして・・2ヶ月の入院で、認知症が出てしまったらしい。
骨折は治ったものの、認知は進んで・・。
それでもなんとか自宅介護を望んだけれど、叶わなかったようだ。
結局子供達は絹江さんを次男の家の近くの「グループホーム」に預けたのだった。
詳しい経過はわからないけれど、自宅に住んでいる絹江さんの長男が、バーちんのお見舞い方々様子を話しに来てくださっていた。
・・お互い頑張って、必ず会えるようにしたいですねって・・そんな話をしていたのに。
バーちんも、いつもいつも絹江さんのことを気にしていたから、リハ病院にいる時に似たような感じのおばーさんは皆「絹江さん」になっていた。
そんな絹江さんが・・亡くなってしまった。
前日まで元気だったのに、突然40度近い熱を出して・・肺炎と、心筋梗塞だったそうだ。病院に運ばれて2時間で心臓が止まってしまったのだって。
電話を下さったオバちゃんは「お母さんには言わないように・・」って。
誰もがそう言ってくださったそうだ。
絹江さんの家族も、知らせることを躊躇っていたそうだ。
それでも、まわりの誰もが知っている親戚以上の関係だったから・・私のところに電話が入ったのだった。
私も・・バーちんには言えない。
絹江さんが亡くなったこと・・絶対言えない。
バーちん・・もちろん亡くなった事でショックを受けるだろうけれど・・亡くなった絹江さんの最期に会えないこと・・それが何より辛いことだと思う。
もし、バーちんが歩けたら・・おそらく何をおいても飛んでいった。
誰よりも先に・・絹江さんの最期の時を側にいて過ごしたかったと思う。
でも、今のばーちんには、どんな無理をしても・・お通夜や葬儀に参列することは出来ない。
どうにかして、会いに連れて行ってあげたかった。
でも・・車でもここからは2時間以上かかってしまう。
まして、いつでも渋滞する国道の狭間の町。
それ以前に、今のバーちんの状態では精神的にも耐えられないだろう。
バーちんには何も言わないまま、バーちんをショートに送り出した。
その足で、私だけ・・世田谷の絹江さんのお宅にお焼香に行ってきた。
腰を痛めている私を心配して、旦那が車で送ってくれた。
片道だけで2時間以上。バーちんの帰ってくる今日がお葬式。
式場は自宅ではなく、さらに遠い場所。
参列が出来ないので、とにかく一目だけでも顔を見たかった。
絹江さんは昔のままの美人で・・とても安らかに眠っていた。
いろんなことが蘇って、また泣いてばかりの一日だった。
何が悲しいのか・・よくわからなくなるまで泣いていた。
でも・・私は私の今を生きなきゃ。
バーちんも、しっかり生きてもらわなきゃだ。
バーちんには、一生嘘を付いていく。
絹江さんは、ホームで元気にやっていると。
昔住んでた町は、面影を探せないくらいに変わっていた。
通いなれた通学路でさえ、なんだか全然覚えてなくて。
道案内が旦那に出来なくて・・散々バカにされちゃったけど、都会は様変わりがとてつもなく激しい。
今度この町に来るのはいつになるかなぁ~。
そして・・絹江さんの亡くなった日の朝、我が家のカメちゃん達が死んでいた。
昼間の暑さのせいなんだろうか・・日陰を作っていたのだけれど・・。
私はもう、竜宮城には行けなくなったなぁ・・・。
なんだかよくわからない日記になってしまったなぁ~
長々と・・読んでくださった方・・ごめんなさい。
限りなく・・私の回想になってしまいました。
そろそろバーちんがショートから帰ってきます。
今日は、なんと!ジィーもバーちんと同じ場所のディに見学兼ねて行きました。
さぁ・・私も始動開始!!
頑張らなきゃなぁ。
これからも、きっとバーちんの顔を見るたび辛いかもしれない
でも、難しい選択だったよね
私も姪の事をばぁに話すとき不安で仕方なかった
でも、うちの場合、一緒に住んでいたからね 隠しようがなかったから
ご冥福をお祈りします
生きてるといろんなことが起きるし、これからこういうことが増えていくのかなぁ。
悔いのないように、精一杯生きなきゃって思うと同時に、やっぱり楽しまなきゃね・・と思います。
でもこれからも嘘をつかなきゃならないことが出てくると思う。それは私もおんなじだぁ。
昔よく母が言ってた。○○さんが亡くなったけど、おばあさん(私の祖母)には言わないでおこうね、気を落としちゃうから。
久美しゃんの生まれ育った町、いかにも東京の下町みたいで私の憧れです。私は田舎育ちなので。私もセイヤングとかパックインミュージックとか聞いてた。懐かしいなぁ・・・
バーちんも、しっかりしてきたようで・・そうでもないかなぁ・・。
せめて目がもう少し良く見えたら・・とか、せめて言葉がもう少しハッキリしたら・・とか・・「せめて・・」って事ばっかり考えてしまうこの頃で。そんな時に10年以上振りに足を向けた生まれた町が全然知らないとこみたいだったから・・なんだかセンチメンタルジャーニーって感じでした。
昭和の真ん中・・セピア色の思い出って感じです。
昔を懐かしむのはまだ早いけどねぇとも思うけど。
まだまだ心はオネエさん!ウルルさんや、蟹しゃんと一緒~ね!
読ませてもらいました。
2回の火事を乗り越え、がんばってきたご家族。
最近知った「目に見えるものは事実、目に見えないものは真実」を思いました。
亡くなられたのは事実だけれども、
嘘をつきとおすという思いやりは「真実」だと思うのです。
事実よりも大事なことってたくさんありますよね。
「真実」って思いやりの愛がないと語れないですね。
絹江さんはお母さまのお傍にいつもおいでです。
お母さまに大いに力をくれますよ。合掌。
時々・・前世で何か悪いことでもしてきたかなぁなんて考えたりしちゃいって。
弟が亡くなった時なんか、新興宗教の人が毎日のように来ては先祖がどうのこうの・・って言って来たそうです。
バーちんの父親はお坊さんだから、ってこともないけど・・現実を見ているのが精一杯。事実を受け止めてなんとか向かい合っていくのが精一杯。
信じるものは救われる、この神様を崇めて祀りなさい。布教活動している方達は、それが真実なんだろうけれど。・・どう救われるのか不思議な世界です。
真実かぁ・・なんだか肩の力が抜けました。
ありがとう未歩さん。
今度は絹江さんと弟さんが見守ってくれますよ。
私も病気したら宗教とかの誘い来ました。
すべて断りました。
前世が悪いんじゃないですよ。
今を乗り切ってがんばる力を後世に残していきましょうよ。
遅くなったけれどバトン記事、明日更新しTBしますね。
今、原稿作りましたよ。
。゜(´つω・`。)゜。ウゥ・・・。
久美子しゃーん
うちはね、某集団から。あたしがでしゃばった職業してるからその厄がパパに回ってきたんだって言われますー(∂∀∂)アハー
倒れた当初なんて、【ほれ!みたことか!!】って鬼の首でもとったように。。。
確かに親不孝娘ではあるけど
先日の久美子さんの記事を読んで
ずーっと青空を見上げてみましたよー(≧▽≦)
なんか癒されましたぁー。
悪いことしているんじゃないんですもの。
あなたはちっとも悪くないですよ。
そいうことを平然と言う人のほうが信じられません。
辛い立場の人をそういう時期に便乗して勧誘する方が
異常でおかしいです。
本当にその人を心配していたなら使えない言葉です。
負けないでくださいね。
おやすみなさい。
いろんな方がいらっしゃいます。
今回ね、絹江さんのお嫁さんも宗教の違いから仏壇にお参りしないそうです。
とってもとっても良い方なんです・・でも、お姑さんの仏壇に手を合わせられないそうです。
なんだか・・そんなことを聞いて、少しだけ寂しくもありました。
困った時の神頼み・・の私には、お願いばっかりです。
出会いもあれば・・別れもありますね。
ここで出会えた全ての人に出会えたこと感謝しつつ。
もう・・とんでもないよねぇ。ムカついちゃうねぇ。
誰もがなれる職業ではないのだ!
選ばれた職業人なんだよぉ~胸を張って、描いて欲しい~です。パパにとっては、オカンにとっても自慢の娘だと思うよ。もし、もしも我が娘が本に名を残せるようになったら・・ウレシイィ。(ミーハーかなぁ)
親不孝なんてとんでもないですよぉ。。。私が娘にしたいくらいのmayumi*ちゃんだものぉ・・・。
あーびっくりしちゃうね。
人の弱みにつけこんで・・・って、やっぱり思っちゃうよね。
勝手にやっててください!だよね。
未歩さんも書いてくれたように・・異常でオカシイオバかさん達は、ほっておきましょう。
付け加えて・・もちろん、絹江さんのお嫁さんのように、興味のない人には勧誘をせず、押し付けず・・もちろん脅したりせず・・ただ自分で信じてる真実を貫いている人もいる。
それもまた自由なので・・何もかも「オバカ」だなんてことは思ってはいませんけどね。
ありがとうございます(;・∀・)=3
まぁ、こんな性格なもんで
あたしはちっとも気にしてないんですけどね。。
ただ、周囲を巻き込むのはやめていただきたいですねぇ。。
久美子おかぁーしゃん、優すぃ。。
年子の娘っ子ちゃん達は、幸せもんだぁ~(≧▽≦)
うんうん。
そうですね。お仏壇で手を・・というのは初めて知りましたけど、それと似たような事があたしの周囲でもありました。
あたしも、信念を貫く事は自由だと思います
口を開けば・・「手伝え!」だし。キィーキィー言っちゃうしねぇ。
でもさ、娘二人がいて幸せなのは私かもです。
今回は本当に助けれたと思ってるの。
時々神妙に娘にも言うんだけど・・次の瞬間また勃発!まぁ・・しばらくはゴメンちゃい。って感じ。
宗教に関しては人それぞれ。
でも、まわりを巻き込むのはやめて下さい・・って感じだよね。