夢千年のナチュラル・ライフ

オーガニックな暮らしを求めて、愛知県の作手高原へ一家で移住して15年。スローライフ&スローフード実践中!

手作り ヤギチーズ

2010年05月28日 | ヤギ
本格的なチーズ作りは初めての試み。

1・・・ヤギの入手
まずは搾乳に適したヤギ種を選び、搾乳に適した性質を持った、
搾りやすい乳首をした、性格のいいメスヤギを選び家族として迎えます。
うちの場合、日本ザーネン種のブリーダーさんから購入しました。

2・・・1歳を過ぎたら、発情期に種付けします

3・・・出産
感動的な瞬間に出会う。そしてカワイイ仔ヤギちゃんと戯れる日々!

4・・・初乳
出産直後の初乳は黄色っぽいです。2~3日の間の初乳は、
とても栄養価が高くて濃くてドロドロした乳が出ます。
でも、人間は飲まないでね~

5・・・子育て期
2頭産まれたら仔ヤギが飲み干すので、人間が飲む分はありません。
たたし、乳が余っても、搾乳したら飲まないで冷凍保存しておくといいそうです。
親ヤギが病気になったり、何かの理由でミルクが足りなくなったときのために
とっておくのです。

最初の数日間は初乳を人間は飲まないほうがいいらしいです。
初乳には、お腹がゆるくなる成分が含まれているからです。
生まれた仔ヤギが、体内の老廃物を出しやすくするために
そうなっているのだそうです。なるほどね~!

6・・・搾乳開始

きれいに手を洗い、濡らしたタオルで乳房の汚れを拭き、搾乳開始!
うちのヤギは、仔やぎが飲んでもなおかつ、一日に1~2Lぐらい出ます!
(私は家族で唯一の搾乳隊で、同時にカメラマン担当でもあるので、
搾乳中の写真が撮れないんです~)

7・・・低温殺菌

いつもなら普通に飲むだけなので、70℃15秒で湯銭しています。カンタンなので^^
でも、チーズにするには65℃以下でなければなりません。これこそ本当の低温殺菌です。
温度計とにらめっこで63~65℃を計りながら、30分も鍋の前に~^^;


↓ここからやっと、チーズ作り開始!

※ここでご紹介するのは、作ったその日に食べられるフレッシュチーズではなく、
寝かして熟成させるチーズです。

8・・・湯銭
ここからが、たのしいチーズ作り♪
2ℓのやぎミルクを鍋で湯銭し、34~36℃にあたためます。

9・・・ヨーグルト
暖めたミルクに、スターター(ただのプレーンヨーグルト笑)を加え、
よく混ぜて、保温なべで一時間待ちます。
プレーンヨーグルトと言っても、原材料をよく見ると、
メーカーによって少しずつ違いますね~



例(4社比較)

●牛乳、乳製品

●生乳、乳製品

●牛乳

●生乳

・・・てのがありました。

生乳だけのやつが良さそうな気がしたので、それにしました。

10・・・レンネット & 塩
ほんの微量の酵素(レンネット)と塩を、

ミクロスプーンで計ってほんの少しの水に溶かし、
ミルクに加えて混ぜます。


ミクロスプーンって、こんなにちっちやい!!


保温鍋にセット!


あとは24時間、待つ!!! ワクワク・・・

11・・・醗酵中
翌朝、鍋の中を覗いてみました。


たった一晩で、乳清(ホエー)がだいぶできたようです。


チーズの元は、底に沈んでいるはず。

12・・・ホエーを抜く!

ホエーを流したら、絹ごしどうふのように柔らかいカードが現れました!

13・・・モールド
型に入れることを言いますが、家中さがしましたが、モールドに使えそうな
穴がたくさん開いたカップは見つからず・・・

茶漉し袋を使ってみました(笑)
形は悪いけど、あとで、手で形を整えればいい、ってことで!
我ながら結構いいアイディアだと思いました!!
24時間室温で置いて乾かし、さらに
みずみずしいカードにたっぷり含まれているホエーを抜きます。

14・・・型抜き・形を整え、両面乾かす。

茶漉しの袋から取り出し、手で形をととのえます。
一日乾かしたら、翌日、ひっくりかえして、また乾かします。

ちょっと塩を振ってみたりして・・・(自己流)^^;

15・・・熟成開始
サランラップでくるんで、冷蔵庫へ。
ほんとはサランラップじゃなくて、よくフランスの田舎で手作りしているチーズに
使われている、柔らかくて薄い紙が欲しいんだけど、なんかないかな~?

16・・・食べる
熟成度合いはそれぞれ好みだそうです。
ヤギチーズは何ヶ月熟成しても、あまり硬くならない、とろりとした
カマンベールのようなチーズで、熟成すればするほど、香りの強いチーズになります。




山羊乳 チーズ♪

2010年05月18日 | ヤギ
ヤギ乳で作るチーズのレシピというと、たいていは
あっという間にできるので、カッテージチーズが紹介されています。

でも、以前、近所のヤギ飼い友人から そのヤギ乳カッテージチーズを
いただいたけど、味がなくて、あんまりピンと来なかったので、
気が進まなかったんですよね~

そこで、いろいろ調べてみて、マイミクさんからも教えてもらい、
レンネットという酵素も手に入れ、とうとう・・・・

シェーヴルを作ることに~!!!!( ゜∀゜)・∵. ガハッ 
ほんとにできるんかいな!?

写真は、
ホエーを抽出して、モールドした状態です。
明日から冷蔵庫に入れて熟成スタートです (・∀・)b

ホエー(乳清)がたっぷりとれたので
ヤギに飲ませました。
すごい勢いで飲み干しました。
翌朝の乳はいつもよりたくさん出ました!
乳清効果バツグン!?

ヤギ小屋

2010年05月13日 | ヤギ
尾形さんのおかげで
念願の、"ちゃんとした" ヤギ小屋、建築中。
新装オープンはいつになることか?


木のあたたかさ、柔らかさがいい。


柱はリサイクルの材木の寄せ集めなので
クギがいっぱい残ってます・・・
抜かなきゃ・・・

黒田 武儀

2010年05月11日 | 黒田武儀
山の暮らしと、町の暮らしが、ひとつに結ばれる日
山と海は川でつながっている。その間に村があり、町がある、人々の暮らしがある。


夢千年の暮らしPRODUCE & DESIGN 黒田 武儀
レオンバイク・ジャパン
日本民家研究所


いつから私たち「市民」は、「消費者」と呼ばれるようになったのか。
生産主体から切り離された「消費する客体」は、何かを生み出すことを期待されず、次の時代を形づくる主体的エネルギーを持たないまま、「華麗な消費生活」に甘んじるのか。


アウトドアライフが目的だったのではない。田舎暮らしに憧れたのでもない。農業を志したのでもない。鎌倉を逃げ出したのでもない。世界市場経済との決別を、そして、次の時代に向かって踏み出すことを、形にして示したかったような気がする。
都会生まれで田舎を持たない私たち家族6人が、生命の水の生まれ出る源流の村で日々過ごしながら、循環の暮らしと真正面から向かい合ってみると、行き場のない20世紀文明が向かうべき方向が、見えてくるのではないかと期待していた。大量生産、大量輸送、大量消費、大量廃棄の世界市場経済を克服する社会モデルが、輪郭を見せるのではないかと期待していた。


・農薬も化学肥料も、全く使わない自然な農法。
・水道も引かない、下水道にも接続しない、水と向かい合う暮らし。
・再生可能な「木」を、主要なエネルギー源とする暮らし。
・木や土や紙、草など、自然な素材だけで「家」を建てる暮らし。
・何もかもを循環させるよう努めながら、生物多様性を重んじて、自分たちも一個の生き物として生きようとする暮らし。
・自分の暮らしくらい、自分でつくる暮らし。
・冬と夏では冬、夜と昼では夜、新月と満月では新月、寒さ、暗さが基準になる暮らし。
・感じる心、感じるセンス、感じる力、六感で生きる暮らし。
・一年は、365季あると感じる暮らし。
・限りなく循環する、過不足のない暮らし。
・美しさが日常になるスタイルのある暮らし。


強者の論理が支配するところには、差別がある。格差が生まれる。
差別や格差の際立った特徴は、差別する側の人々はいつでも「差別など存在しない」と言うことだ。
自分を常に、弱者の側に置くことによってしか、差別や格差は見えてこない。
強者の中にも、勝者と敗者はいる。偶々、その時そうなっただけで、敗者が必ずしも弱者ではない。
真の弱者とは、立場の交換をしたくてもできない人たちのことを言う。

私たち家族が暮らす作手村は、愛知県の東のはずれ奥三河地方と呼ばれる地域にあります。10,000haを超える広大な面積に、戸数900が23の集落に分かれて点在し、高齢化率が35%に達する、人口3000人余りの、典型的な少子高齢化に悩む過疎の村です。
この地方全域が、標高300mから1,000m超の中山間地で、町村面積の90から98%が山林であり、スギやヒノキの人工林率も90%を超える林産地です。かつては、三河杉と呼ばれる良質の桶樽用材、木造船用材を、大量に産出してきました。おかげで今でも愛知県は、全国でも有数の「醸造県」で、三河味醂や八丁味噌、ミツカン酢、などがよく知られていますが、一つの小さな市で、酒、味醂、味噌、醤油、酢、全ての醸造所があるところもあるほどです。


奥三河地方で、もっとも平均標高の高い村が、作手村です。
と言っても、コメの専業農家が20世帯を超える米作の村でもある、テーブルのように開けた、空の大きい、珍しい地形の村です。その昔ここは、諏訪湖より大きな大湿原だったそうで、全国の村や町の中で、いちばんたくさん白鳥神社があるように、水鳥が群れ飛ぶバードサンクチュアリだったのでしょう。今でも、平地の分水点が残っていたり、日本でも有数のバードウォッチングポイントだったり、その名残りをとどめています。


私たちは、苦労に苦労して手に入れた南向きの緩斜面に、自然な素材だけを使って、昔ながらの伝統的な工法で、新しく農家を建てて住んでいます。「百年後に民家と呼ばれる家」と名づけています。
田んぼは、木の生い茂った底なし沼を、胸まではまり、這いずり回りながら開墾しました。畑も、荒れ果てたジャングルのような、山の斜面を拓きました。そのままでは、田んぼにも畑にもならないことを知ったのは、その後でした。
茶畑と梅林は、急にはつくれないので、放置してあったところを借り受けました。ニワトリやヤギ、ロバも、早く飼えるようになりたいと願っていますが、未だ実現していません。炭焼き窯も持っています。


村に来てすぐに、毎月一回定期的に、初心者を対象にしたマウンテンバイクスクールをはじめて、9年間休まずに続けています。自然と人との関係を、知らず知らずのうちに体得してほしいと思ってはじめたのですが、参加者も1万人を超えました。最近では、ヴァリエーションも増えて、誰言うとなく「つくで学校」と呼び始める人たちが出てきました。
今は、その経験を生かして、新しい考え方で「世界一のマウンテンバイク」をつくろうとしています。作手村とプロヴァンスの田舎から、20世紀型都市世界への提案です。日仏合作です。


私たちは、農薬も化学肥料も使いませんが、その意味を理屈で説明したりはしません。自分で作って、田畑で収穫したノンケミカルの食べ物は、素直に「おいしい」のです。
自然に感謝する「素直な気持ち」になれるのです。食べてみればわかります。


山の村では、空き家や空き地があっても、それは都会のように「不動産」ではない、ということが理解できるまで、2年もかかりました。誰も譲っても貸してもくれません。
村の半分の地域では、新聞の配達さえありません。郵便で来ますから、早くても昼頃にならないと新聞は読めません。配達がある地域でも、家のポストにではなく、車で取りに行くくらい離れた場所にある集合ポストです。夕刊はもともとありません。
ある日気がつくと、村から公衆電話が消えていました。しかたなくみんな携帯電話を買いました。でもほとんどの地域で、携帯は使えません。でも統計上は、村中使えることになっています。村役場で使えれば、その村の人口の全部がカバーされたことになる「数字のトリック」だからです。
もちろん今流行りの「高速通信」などは、どこの国の話かと思うほど遠い話です。最大限64kと鳴り物入りで宣伝していた「ISDN」が、村では今でも最速です。それさえも村で最初に導入したのは、私たち家族でしたから、いい番号を独り占めしています。5000・5111・5222・5151・5500・5555・という具合です。
電力供給も、電圧変動が時に、上下で20V以上もあったりして、やたら電球は切れるし、洗濯機や冷蔵庫のような壊れにくいものでさえ、突然動かなくなるのも、一度や二度ではありませんでした。パソコンが、白煙を上げて真っ黒になったこともありました。
テレビも、100万円以上もかけて、自力で山の上にアンテナを立てたりしてようやく見える家が、そこら中にあります。ケーブルテレビなどあるわけもありません。最近ようやく、衛星放送用のアンテナを見かけるようになりましたが、それさえも映りはよくありません。受信状態が、とても不安定です。
メーカーも電力会社も、NTTも、NHKも、新聞社も、誰も責任があるとは言いません。ほったらかしのままです。言うまでもなく、国も県も村も、知らん顔です。村の人はみんなあきらめています。物言えば唇寒し、です。
村の中央部の、いちばん標高が高いあたりには、戦国の覇権を争った徳川武田の最後の合戦の場として、小さな山城が5つも6つもありますが、そのひとつの頂上部近くに、戦没者の慰霊碑があり、墓がずらっと並んでいます。たかだか3000人余りの小さな村に、100基を超える戦死者の墓標が並んでいます。人口比率にすれば、たいへんな数字です。胸を突き上げられるような、異様な光景です。
昔話として聞いたことはありましたが、「村八分」というのは、この村では未だに死語ではありませんでした。
都会では当たり前のことが、ここでは当たり前でなく、忘れるほど昔の話が、村では今でも現実です。


それでも貨幣経済は、容赦なく村の暮らしを覆いつくしています。
毎日の生活にも、ひとの意識にも、村の景観にも、貨幣経済は大きな変化をもたらしました。
今はすっかりその本来の役割りを失って、都会の人たちから「里山」と呼ばれるようになった「裏山」は、田畑の面積の、少なくとも125%から200%の面積を必要とするほど、屋根用の茅場としても、堆肥用の草刈り場としても、薪炭林としても、季節の山菜やきのこを供給する場としても、山の暮らしには、なくてはならない存在でした。今は、誰も管理する者もない、ただの荒地です。
野菜や食材は採取するのではなく、スーパーマーケットで買うものになりました。薪炭は、ガスや石油に代わり、堆肥の有機肥料は化学肥料になり、茅葺屋根は、トタンを被せて缶詰にするか、瓦葺に替わってしまいました。
朝から晩まで働き通しの暮らしから解放される代わりに、現金を稼ぐのに汲々とする暮らしになりました。これが、世界でも有数に美しい日本の農山村風景を、コンクリートやプラスティクスだらけにした、「社会的経済的構造の土台」です。
都市でも、桶樽はステンレス製に、船は鋼鉄やプラスティクスに、住宅の多くは鉄とコンクリートに、木造住宅は簡便なプレファブ住宅になりました。
住宅のユニクロ化は急速に進行し、「早い、安い、簡単、」のさまざまな要因が重なり合って、国産木材の需要を極端に低下させ、国の政策も行政も口先だけの林産振興で実態が伴わず、山は荒れ放題に荒れています。これは奥三河地方でも、他の林産地とまったく事情は同じです。


右肩上がり時代の、30年以上も前に立てられた、水の大量需要計画に基づくダム建設計画が、各地で見直され、計画が中止される中で、山に頼ってきた林産地であるばかりに、その山に頼れないばかりに、私たちの地域では、1億㎥の貯水量の大ダム建設計画は、今もなお進行しています。
ゆるやかな山の南斜面に点在する黒い瓦の民家や土蔵や納屋は、命半ばに200年で、湖底に沈められようとしています。


「ダム建設中止」が、私の主張です。
ダム建設を止める代わりに、私の提案は次のとおりです。


私たちの住む奥三河地方は、豊川、矢作川、乙川などの水量豊富な水系を形成して、豊田市、岡崎市、豊橋市、豊川市、蒲郡市など広範囲な地域に、きれいな水や空気を供給する役割りを担っています。全国でも有数の野菜や果物の産地も、この水系のもたらす水と栄養分のおかげです。


ダムを作る代わりに、山の住民である私たちは、まず最初に、水系全域の、全集水域の山林の除伐や間伐を進めて山林を整備します。
次に、山の中でも、尾根筋や、大小の沢筋の山林を、針葉樹から広葉樹に植え替えます。山の保水力を大幅に高めたり、生物多様性を回復して、山全体の健康回復のためです。
また、40%もの減反政策のあおりを受けて、ほとんどが放棄され放置されている山あいの水田や棚田を、意図して全面的に再生します。山の田んぼは、それ自身が巨大なダムです。日本中のダムの10倍もの水を蓄えています。大量の水を確保するとともに、同時に豪雨の時は、遊水池の役割りをはたしながら、保水量をコントロールします。

コンクリート三面張りした河川や用水は、流路を蛇行させながら、自然護岸や自然堤防に戻し、堤防上や河川両岸に広葉樹の河畔林を育てます。生物多様性を回復しながら、同時に水質の改善と保持に役立てるようにします。治山治水を目的に大量につくられた砂防ダムは、山の整備回復とともに徐々に廃止します。
農業他の用水にする目的の他、保水力の向上と、流水量のコントロールのために、小規模ながら多数の用水池や遊水池を設けて活用します。

水質の改善のために、農地では、あるいは施設農業園芸でも、農薬や化学肥料の使用をやめることにします。また、都市住民に対して、ほんもののノンケミカル食品の普及を図ります。
大規模化が進む中で、相次いで廃棄されている各地の木材加工場や林産品加工施設を、地域ごとに小規模施設を積極的に復活して、地域振興、林産振興の実を挙げるとともに、下流域の都市住民に対して、流域産木材と地元職人による伝統工法による住宅建築を、組織的に呼びかけます。


一方、下流域の都市住民は、水の需要量を、いま一度徹底的に見直します。蛇口を開けば、水は無限に出てくるものだという、使いたい放題の各自の市民生活のあり方を、自省しながら見直すよう促します。

これ以上工業生産を拡大する必要があるかどうか、大量生産と大量廃棄の文明に、いつまでどこまで依拠するのか、について徹底した議論をする必要もあるでしよう。
それでもなおかつ、これまで以上の大量の水需要があるというなら、水の価格を、現在の使用量の超過分について大幅にアップすることを提案します。
また市民は、山の住民の呼びかけに応えて、流域産のノンケミカル食品や木材を活用した、安全で健康な暮らしを心がけてほしいものです。


いずれにせよ、下流域の都市住民は、畑を潤し、海を養い、自分たちのために上質の水を必要量確保するために、日々努力し、農薬や化学肥料を使わない農業による収量の減少があれば、その減少分に対して、堆肥づくりなどさらなる労働の強化などへの、正当な対価を、山の村の住民に支払う必要も出てくるでしょう。
都市住民は、水が、何の苦労もなく自然に湧き出るように、水道管から出てくるものだという意識から脱却して、自己変革を遂げなくてはなりません。
また、ダム建設に反対している都市住民も、いくら「ダムがいけないもの」であっても、自分たちが、それ相応の代償の負担をする覚悟なしに、「ダム建設阻止」はできないことを知らなければなりません。


上に提案したことは、実は、山の住民たちが、ずっと長い間日常的に、また習慣的にやってきたことにすぎません。
山の暮らしは、ただ自分の暮らしを支えるためにあるのではなく、下流のひとびとの水を量的に確保し、水質を保全し、きれいな空気を送り出し、木材や食物を必要なだけ供給するためにも、営まれてきました。
私はこのような、自分の利益のためだけでなく、下流のひとびとの円滑な毎日の暮らしのためにも、惜しげもなく自分の時間や労働を費やして、少しだけ大げさな言い方をすれば「国土保全」の役割りを担い続けてきた、日本という国が今日あるのも、そのたゆまぬ営為のおかげと言っても、決して言い過ぎではない人たちのことを、心から尊敬を込めて「百姓」と呼んでいます。
これまで長い長い年月にわたって、都市の暮らしが、山の「百姓」の「心配り」や、「草刈り」「道普請」「山仕事」「田んぼ仕事」「畦塗り」「川さらい」「池さらい」などと呼ぶ、無償労働の代償に依拠してきたことを、今この機会に、都市住民は認識を新たにする好機と言うべきでしょう。


がしかし、山の側もまた、安易な貨幣経済にコロリと参ってしまっている現状や、土木建設工事で主導する保守政党の農山村政策を成り立たせている本質の部分を、自らえぐり出すことなしには、ダムは止められないのも、また真実でしょう。上流と下流の連携が、今こそ必要ですが、前途は多難をきわめています。
今は山の村にも、階層の分化が始まっていて、山の村に住んでいる人も、3つに分類しなくてはなりません。
一つは、昔ながらの「百姓」と呼べる人たちです。多彩な能力と技術を駆使して、「多機能」で生きる人たちです。ほとんどが50歳代より上で、主力は既に70歳代です。年々数が減りつつあります。
二つめは、「農業者」です。この人たちには、「国土保全」意識は希薄です。都会の暮らしと同じように、一つの「業」に従事して生活を成り立たせようとしている人たちです。30代40代50代で、村に残って農業をやっている人や、都会からやってきた新しい就農者は、ほぼ全員がこの層に属しています。農業技術だけで、都市型の、「単機能」で生きようとする人たちです。
三つめは、昼間は下の町に行って工場や役所や学校、病院などで働く「村内居住者」です。この人たちは、ライフスタイルの点でも、意識の面でも、ほとんど都市住民と変わりません。自分たちが「国土を保全する役割りを担っている」というような気持ちは、消失しています。20代から50代くらいまで、広い層にわたっています。
年々、三番目の「村内居住者」層が増えていき、二番目の「農業者」層は、行政やJAが躍起になって増やそうとしていますが、一向に増えません。「農業」では「食えない」からです。いちばん肝心な「百姓」は、高齢化による自然減に加えて、第二のカテゴリーに移行したい人たちもいて、急激に減少する傾向にあります。
今の山村が抱えている、全日本的課題が、ここにあります。緊急に対策を講じる必要がある重要課題です。