五、「教会とわたしたち」(384)
5.近代から現代へ(宗教改革とその後) はじめに、近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」から引用(その23)
⒔ それでは、なぜわたしたちは同信のキリスト者のしかばねを埋葬するのか。
それゆえに、昔の義人たちの葬儀は注意深く(前回はここまで)敬虔に執り行われた。墓が建てられ、葬列が整えられた。彼ら自身が生前にその子らに対し、自分の遺骸の埋葬や移転について指示を与えたのである。トビアスは死者を葬っ
たというので、神を喜ばせたものとして称賛された。天使がそのことの証人である。主御自身も、実は三日目に復活されるところであったが、しかも敬虔な女が高価な香油を彼の手足に注ぎ、その葬りの備えをしたとき、その女の善行をほ
め、賞賛に値するものとして賞揚された(マタイ二六・一〇以下)。主のなきがらを十字架から取り下し、布で包み、愛と尊敬とをもってていねいにこれを葬った人々は、福音書において大いに賞揚されている(ヨハネ一九・三八以下)。・・・しか
し、ローマやその他の町の略奪の最中に、このような葬りをキリスト信者のしかばねにすることができなかったからと言って、それを果たせなかった生者が責めらるべきではないし、死者もそれを感ずることができないゆえに、悩みには思わ
ないであろう。
⒕ キリスト信者が捕らえられたときも、彼らは霊の慰めを奪われることがなかった。
「しかし」、―とわたしたちの敵は言う―「多くのキリスト信者が捕囚の身となった。彼らがその神を見いだすことができない所へ連れ去られてとしたならば、それはもっとも悲しむべき(つづく) (教団出版「神の国」出村彰訳1968)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます