創世記24章11節である。「女たちが水汲みに来る夕方、彼は、らくだを町外れの井戸の傍らに休ませて、」という。長旅のゆえに、用意万端を整えて夜明けを待ち朝食を済ませてからの出発となったのであろう。ここの、「女たちが水汲み
に来る夕方」というときの報告にはそのような出発の時との対象の夕方と言う意味がありそうである。第一日が暮れようとするこのとき、出発に至ったときまでの責任の重さを痛感しての最初の大きな意味を持つ休憩となった。豪華な結納
品、付け人も多くいたのであろう。
10節で「ナホルの町」に向かったのであるがナホルは正確にその古代の位置を特定するのは難しい。しかし、ユーフラテス河の大湾曲部に囲まれた地域のハランのやや南方であると言われる。古代バビロニヤの文献、粘土板のマリ文
書にもしばしば出てくる地名(フォン・ラート)であるから、その存在はほぼ間違いない。いずれにしても旅の道程はヘブロンからほぼ千キロほどになり、歩いて一日30キロとして一ヶ月はかかる。その「夕方」は、その先を展望するに貴重な
る時間であった。
12節である。「祈った。『主人アブラハムの神、主よ、どうか、今日、わたしを顧みて、主人アブラハムに慈しみを示してください。』という。『主人アブラハムの神』という呼び方は始めてである。本人の信仰があってその上で強い呼びかけ
なった。
「慈しみを示してください」という、その「慈しみ」は原語では「『へセド』であり、神の人間への重要なかかわり方、神の態度を現す言葉である。したがって、「『へセド』を示してください」というのは、神様のわたしたちへの基本的な、契約を実
現させる神の固い慈しみである。やがてキリストの十字架に開示され神の愛となる
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