日本キリスト教会 大分中央教会

1517年、宗教改革による改革派信仰の伝統を引き継ぐ教会です。

牧 会 通 信

2017-09-18 22:21:11 | 大分中央ウィークリー

 

(原 光訳 2000年、沖積舎) 

ダンテの「神曲 地獄」編 18歌(カッコ内は筆子、その3)

◯この谷谷のある区域は、城壁を護るために幾重にも堀が城を取巻いてゐるところにそつくりで、

谷谷はあの堀堀さながらだつた。そんな城塞ではその入口から外堀の縁まで小橋が幾つもかかつてゐるが、

そのやうに岸壁の下から岩礁が伸びて、堤と堀を横切り、井戸に集まつて断切られてゐる。(前回ここまで)

◯この場所にヂェリオン(猛獣)の背から揺り落とされて、詩人は左手へ進み、わたしはひしとついていった。

  右手には新奇な悲惨と責苦、新奇な鞭打人が見え、第一の袋はそれでいつぱいだつた。

  底には裸の罪人たちがゐて、真中からこつちにはわたしらの顔に向つて来るもの、向うにはわたしらとともに

進むものがゐたが、歩みはより早かつた。 (つづく)

◯本日、9月17日(日)の日本聖書協会の聖書本文は箴言3・1~12で、その主題は「長寿の祝福」である。その7~8節「自分自身を知恵あるものと見るな。主を畏れ、悪を避けよ。」(8節)「そうすれば、あなたの筋肉は柔軟になり~」とある。この「筋肉は柔軟になり」の「筋肉」はこの言葉「シャラー」は文字通りには「へそ」である。旧約では3回しかない。エゼ16・4と雅歌7・3(口語2節)と。「へそ」を「健康にする」(「ラーファー」)では通じない。従って「筋肉は柔軟に」とは、「健康にする」との関係であまりにも乱暴である。口語訳は「あなたの(へそを)身を健やかかにし」と意訳。

写真は、9月11日に逝去された故中澤幸子(ゆきこ)姉の家族葬。遺族の二家族六名と牧師夫人と牧師を入て合計8名での葬儀。清楚な葬儀である


プロテスタントとカトリック

2017-09-12 21:11:33 | 大分中央ウィークリー

近代から現代へ(宗教改革とその後)

はじめに近代への萌芽としてアウグスチヌ

ス著「神の国」(1968.教団出版)(その68)

  最終篇に入ります。

第二十二篇 神の国の永遠の浄福に

  7.この世がキリストを信じるに至ったのは、人間的な説得の結果ではなく、神の力の結果である。

  8.この世をキリストの信仰へと獲得するためになしとげられ、世界が信ずるに至った今でもなされている奇跡について。

   あるいはこう問われるかも知れない。かつて起こったと(前回はここまで)あなたの主張するような奇跡は、今日どうして行われないのであろうか、と。わたしはこう答えよう。それらは世界が信ずる前には信仰に導くために必要だったのである、と。信ぜんがために何かのふしぎなわざを求める者は、彼自身がすべてのうちでももっとも大きなふしぎである。なぜならば、彼は彼以外の全世界が信じていることを信じていないからである。しかし、これは奇跡がかつて本当に起こったのだという信仰を否定することに他ならない。……

   しかし、奇跡は今日でも神の礼典により、聖徒らの祈りや聖遺物により、神の名においてなされている。唯、これらはかつてほどに有名でもないし、輝かしい記録にもなっていないだけのことである。

  聖書正典はひとたび制定されると、昔の奇跡を世界のすみずみにまで知らせることとなり、いたる所で人々の記憶に強い印刻を与えることとなった。しかるに、もっと最近起こった奇跡は、それが行われた町とその近郊でようやく知られているに(つづく)(「神の国」出村彰訳)


聖書研究

2017-09-12 21:05:48 | 大分中央ウィークリー

創世記24章52節である。「アブラハムの僕はこの言葉を聞くと、地に伏して主を拝した。」という。一見、少し大げさな礼拝の仕方に見える。しかし現実は、快く引き受けた返答に対してである。そばにいた娘に問うでもなく、「リベカはここにおります。どうぞお連れ下さい。」といって差し出すかのような返答であった。きっと、アブラハムの僕の方が驚いたのであろう。即座に「地に伏して主を拝した。」という。

 

なぜなら、それほどまでに、ここに来るまでの旅路がそうであった。ただ神の守りと、導きを実感しながらの旅路をここまでやって来たからである、しかも相手側の返答が「主がお決めになったとおり」とまで言われたのに対して、即座に主なる神への感謝以外になかったのであろう。その信仰的な言葉の現実が、彼に間髪いれずの行動にさせたようである。我らも怠ってはならない、何よりもまず神に感謝し、まず礼拝である。

 

53節である。「そして、金銀の装身具や衣装を取り出してリベカに贈り、その兄と母にも高価な品物を送った。」という。これらの贈り物の贈与の数々は、今日のわれわれも結婚式の前の習慣として互に交わす「結納」であろう。出発の時はあまりにも遠い旅になるであろうと予測されたところから、道中の危険にもかかわらず、よくもこのような高価な贈り物を持ち運んだものとは、ただただ驚きである。神の御守りであろう。

 

今日ではほぼ同じ心がけであろうが金銭、織物、酒肴などを心を込めて取り交わす。見つかるであろう嫁が、多分遠い縁戚となるであろうと予想されたこともあり、また長い旅路を全10頭のらくだによって運ねばならなかった。あらん限りの安全への気配りしながらの、心を込めた高価な贈り物であることが、相手によく分り頼もしい限り


牧 会 通 信

2017-09-12 20:59:51 | 大分中央ウィークリー

 (原 光訳 2000年、沖積舎)

ダンテの「神曲 地獄」編 18歌(カッコ内は筆子、その2)

◯地獄には悪の袋と呼ばれる場所があり、ぐるりと取巻く岸壁とひとしく、鉄色の岩石ばかりで出来てゐる。

  この邪悪な区域の真中には、かなり大きく深い井戸が口を開いてゐるが、その構造は適当なところで述べよう。

  この井戸の縁と堅い断崖の下の間にある、この圏(たに)は円くて、その底は十の谷に分たれて(前回ここまで)

◯この谷谷のある区域は、城壁を護るために幾重にも堀が城を取巻いてゐるところにそつくりで、

  谷谷はあの堀堀さながらだつた。そんな城塞ではその入口から外堀の縁まで小橋が幾つもかかつてゐるが、

  そのやうに岸壁の下から岩礁が伸びて、堤と堀を横切り、井戸に集まつて断切られてゐる。(つづく)

◯本日、9月10日(日)の日本聖書協会の聖書本文はヨハネ6・66~69で、その主題は「永遠の思い」である。イエスのもとから多くの弟子たちが離れ去ったとき、67節、「そこでイエスは十二人に、『あなたがたも離れて行きたいか』と言われた。

そこで68節「シモン・ペトロが答えた。『主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。』」といいます。多くの弟子たちがイエスのもとから離れ去ったときがあった。残ったのは十二弟子だけであった。どうしてそんなことになったのか考えてみる必要がある。現代人も全くこれと同じである。イエスが選ばれたものは離れない。不思議な力が人をイエスのもとに集める。

写真は、9月4日、福岡城南教会に集まった教職たちである。大衆中華料理店の夕食のひととき。


プロテスタントとカトリック 

2017-09-05 23:50:27 | 大分中央ウィークリー

プロテスタントとカトリック 

五、「教会とわたしたち」(427)  近代から現代へ(宗教改革とその後)

はじめに近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」(1968.教団出版)(その67)

  最終篇に入ります。

第二十二篇 神の国の永遠の浄福に

  6.ローマロムルスを神としたが、それは彼を建国者として敬愛していたからである。教会がキリストを愛するのは、キリストをとして信ずるからである。

  ……ローマ人の怒りを引き起こすかも知れないという些少な恐れでさえも、隷属都市をしてロムルスを神として崇めさせるに十分であった。しかし、もっとも大きな恐怖、すなわち単に怒りを引き起こすだけでなく、恐るべき刑罰、いな、あらゆる恐れの中でもっとも恐ろしい死でさえも、多くの殉教者が全世界のどこででも、キリストを神として礼拝し、そう宣べ伝えることを止めさせられなかった。……

  そうであるにせよ、神の国の救いはただ信仰とともに・信仰によってのみ保たれ、いなむしろ獲得される。(前回はここまで)ひとたび信仰を失ってしまえば、なにびともこれに到達することはできない。この思いを心のうちに固く秘めて、多くの偉大な殉教者が世を去ったのである。ただひとりといえども、ロムルスが神であるという信念はこのような者を生まなかった。

7.この世がキリストを信じるに至ったのは、人間的な説得の結果ではなく、神の力の結果である。

8.この世をキリストの信仰へと獲得するためになしとげられ、世界が信ずるに至った今でもなされている奇跡について。

あるいはこう問われるかも知れない。かつて起こったと~(つづく)~(「神の国」出村彰訳)