創世記24章51節である。「~『リベカはここにおります。どうぞお連れ下さい。主がお決めになったとおり、ご主人のご子息に妻になさってください。』」と答えるのであった。「主がお決めになったとおり」とは、実に神学的な本筋を言い切った言葉である。良くも言えたものと、その言葉には、われわれには驚く。ラバンと、ベトエルのどちらが答えたかは、多分、名前が先の長男のラバンであろう。
聖書の伝える神学的な本筋を、異教社会の一族の長男が柔軟に答えることができたとは驚きである。その感化力はアブラハムの僕の、丁重な繰り返しの言葉の本筋の中にあった。ここに至った事情説明の形を取った伝道説教のようであった。神の御摂理の説明に終始一貫していたように思える。説明の中に隠されたものは、まさに神のご計画の説明そのものであり、それが本筋であり、見事に感化されたといわねばならない。
52節である。「アブラハムの僕はこの言葉を聞くと、地に伏して主を拝した。」という。一見、少し大げさな礼拝の仕方に見える。しかし現実は、快く引き受けた返答に対してである。そばにいた娘に問うでもなく、「リベカはここにおります。どうぞお連れ下さい。」といって差し出すかのような返答であった。きっと、アブラハムの僕の方が驚いたのであろう。即座に「地に伏して主を拝した。」という。
なぜなら、それほどまでに、ここに来るまでの旅路がそうであった。ただ神の守りと、導きを実感しながらの旅路をここまでやって来たからである、しかも相手側の返答が「主がお決めになったとおり」とまで言われたのに対して、即座に主なる神への感謝以外になかったのであろう。その信仰的な言葉の現実が、彼に間髪いれずの行動にさせたようである。我らも怠ってはならない、何よりもまず神に感謝し、礼拝である。