日本キリスト教会 大分中央教会

1517年、宗教改革による改革派信仰の伝統を引き継ぐ教会です。

聖書研究

2017-09-05 23:46:49 | 大分中央ウィークリー

創世記24章51節である。「~『リベカはここにおります。どうぞお連れ下さい。主がお決めになったとおり、ご主人のご子息に妻になさってください。』」と答えるのであった。「主がお決めになったとおり」とは、実に神学的な本筋を言い切った言葉である。良くも言えたものと、その言葉には、われわれには驚く。ラバンと、ベトエルのどちらが答えたかは、多分、名前が先の長男のラバンであろう。

 

聖書の伝える神学的な本筋を、異教社会の一族の長男が柔軟に答えることができたとは驚きである。その感化力はアブラハムの僕の、丁重な繰り返しの言葉の本筋の中にあった。ここに至った事情説明の形を取った伝道説教のようであった。神の御摂理の説明に終始一貫していたように思える。説明の中に隠されたものは、まさに神のご計画の説明そのものであり、それが本筋であり、見事に感化されたといわねばならない。

 

52節である。「アブラハムの僕はこの言葉を聞くと、地に伏して主を拝した。」という。一見、少し大げさな礼拝の仕方に見える。しかし現実は、快く引き受けた返答に対してである。そばにいた娘に問うでもなく、「リベカはここにおります。どうぞお連れ下さい。」といって差し出すかのような返答であった。きっと、アブラハムの僕の方が驚いたのであろう。即座に「地に伏して主を拝した。」という。

 

なぜなら、それほどまでに、ここに来るまでの旅路がそうであった。ただ神の守りと、導きを実感しながらの旅路をここまでやって来たからである、しかも相手側の返答が「主がお決めになったとおり」とまで言われたのに対して、即座に主なる神への感謝以外になかったのであろう。その信仰的な言葉の現実が、彼に間髪いれずの行動にさせたようである。我らも怠ってはならない、何よりもまず神に感謝し、礼拝である。


牧 会 通 信

2017-09-05 23:30:08 | 大分中央ウィークリー

 (原 光訳 2000年、沖積舎)

ダンテの「神曲 地獄」編 17歌(カッコ内は筆子、その15)

◯かなり長く飛んでゐて、呼び戻す合図も鳥も見ずにゐた鷹が、なんてことだ、下りてくるのか!と鷹匠が叫ぶのもかまはず、

  すばやく飛び立つたところへ疲れて百の輪を描きながら下っていき、むつつりと蔑み顔で主人から遠くにとまるやうに、

  ヂェリオーネは切り立つた岸壁のすぐ下の底に、積荷のわたしらを下ろして、弦から放たれた矢のやうに消え去つた。(前回ここまで)

ダンテの「神曲 地獄」編 18歌(カッコ内は筆子、その1)

◯地獄には悪の袋と呼ばれる場所があり、ぐるりと取巻く岸壁とひとしく、鉄色の岩石ばかりで出来てゐる。  

  この邪悪な区域の真中には、かなり大きく深い井戸が口を開いてゐるが、その構造は適当なところで述べよう。

  この井戸の縁と堅い断崖の下の間にある、この圏(たに)は円くて、その底は十の谷に分たれている。(つづく)

 

◯本日、9月3日(日)の日本聖書協会の聖書本文は列王記上3・3~15で、その主題は「真の知恵」である。その7節「わが神、主よ、あなたは父ダビデに代わる王として、この僕をお立てになりました。しかし、わたしは取るに足らない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません。」と祈っている。確かにソロモンは父ダビデの子で、若者に違いない。この環境からは、十分にその任務に耐えうるものであったと思われる。しかし彼自身が「取るに足らない若者で」といっている。その心は責任の重大さが計り知れないものを感じていたようであった。この認識能力はさすがにソロモンである。

写真は、県立美術館9月3日までジブリ大博覧会会場、空中帝国に向う飛行物体、累計入場者17万3千人.

 

 


次週の礼拝説教の予告

2017-09-01 01:31:37 | 大分中央ウィークリー

2017年9月03日朝礼拝10:20.

説教:「主の御心が行われますように」説教者 牧師 南茂昭夫

聖書:イザヤ書53章1~6節,使徒言行録21章1~16節.交読文36.讃美歌149,461,298,24.

 

同夕礼拝18:30

説教「真の知恵」. 説教者 南茂昭夫

聖書:列王記上(説教本文)3章3~15節、コリントの信徒への手紙一 2章11-16節、

夕讃美歌7,357,579,24.

 

 

2017年9月10日朝礼拝10:20.

説教「みだらな行いを避けるようにという決定」

聖書:申命記6章4~9節,使徒言行録21章17~26節.交読文37、 讃美歌492,474,483,27.

 

同夕礼拝18:30

説教「永遠の思い」

聖書:詩編45編2~18節、ヨハネによる福音書6章66-69節

夕讃美歌149,567 ,577,27.


プロテスタントとカトリック

2017-09-01 01:26:21 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(426)     近代から現代へ(宗教改革とその後)

はじめに近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」(1968.教団出版)(その66)

  最終篇に入ります。

第二十二篇 神の国の永遠の浄福に

5.肉のよみがえりについて、世界の大部分 

   の人はこれを受け入れているのに、中に

   はこれを否認する者もいる。

  そこで、全部で三つの信ずべからざることがあることとなる。そして、それらはことごとく生起したのである。キリストは肉においてよみがえり、肉をもって天に上げられた。このような信ずべからざることを世界が信じた、という事実がまことに信ずべからざることである。さらに、世界中が、ことに学者たちが、少数の素朴で身分も低く、学問もない人たちによって全く説得されたということも、信ずべからざることである。……

  6.ローマロムルスを神としたが、それは彼を建国者として敬愛していたからである。教会がキリスト

      を 愛するのは、キリストをとして信ずるからである。(前回はここまで)

  ……ローマ人の怒りを引き起こすかも知れないという些少な恐れでさえも、隷属都市をしてロムルスを神として崇めさせるに十分であった。しかし、もっとも大きな恐怖、すなわち単に怒りを引き起こすだけでなく、恐るべき刑罰、いな。あらゆる恐れの中でももっとも恐ろしい死でさえも、多くの殉教者が全世界のどこででも、キリストを神として礼拝し、そう宣べ伝えることを止めさせられなかった。……  そうであるにせよ、神の国の救いはただ信仰とともに・信仰によってのみ保たれ、いなむしろ獲得される。(つづく)~(「神の国」出村彰訳)


聖書研究

2017-09-01 01:24:36 | 大分中央ウィークリー

創世記24章50節である。「ラバンとベトエルは答えた。『このことは主の御意志ですから、わたしどもが善し悪しを申すことはできません。』~」といったという。「ラバン」はイサクの嫁となろうとしている「リベカ」の兄である。彼はリベカの身につけていた豪華な贈り物に驚いて、町外れの泉のほとりまで走ったのは、当然のことながら、どちらかと言うと物質に関心の強い男のようであった(15節参照)。

 

そして「ベトエル」は、「ラバン」とその妹「リベカ」の兄妹の父である。アブラハムとの関係は、ベトエルの伯父に当る。つまりアブラハムの弟ナホルとその妻ミルカとの子であった(22・20~23)。従ってイサクの嫁になる予定の「リベカ」は、再従兄弟との結婚になる。現代的には血縁関係はかなり近いのであるが、古代では普通であった。かえって衆生がよく分かって安心できたのであろう。

                                                

51節である。「~『リベカはここにおります。どうぞお連れ下さい。主がお決めになったとおり、ご主人のご子息に妻になさってください。』」と答えるのであった。「主がお決めになったとおり」とは、実に神学的な本筋を言い切った言葉である。良くも言えたものと、その言葉には、われわれには驚く。ラバンと、ベトエルのどちらが答えたかは、多分、名前が先の長男のラバンであろう。

 

聖書の伝える神学的な本筋を、異教社会の一族の長男が柔軟に答えることができたとは驚きである。その感化力はアブラハムの僕の、丁重な繰り返しの言葉の本筋の中にあった。ここに至った事情説明の形を取った伝道説教のようであった。神の御摂理の説明に終始一貫していたように思える。説明の中に隠されたものは、まさに神のご計画の説明そのものであり、それが本筋であり、見事に感化されたといわねばならない。