神武天皇即位紀の際の絵で、よく出回っているのがこちら↑です。弓の弭(はず)に鴉が止まった事により戦況が変わります。
この弓🏹の弭(はず)ですが、長髄彦にとってはこんな「はず」じゃなかった、なんて感じだったのかなぁと思います。この弭は、弓の両端の弦をかける部分、ゆはずのことであり、本弭、末弭とも、弓へんに耳と書きます。
耳は、漢文では、「~のみ」と読みます。
「~而已」も、「のみ」です。而已は、「~にして已(や)む」つまり、「~で、おしまい。それ以上言うことはない」ということです。その「而已(ジイ)」が一音に発音されて「耳(ジ)」になったようです。
弓➕耳、弭は会意文字なので、弓を使うのは、もうおしまいにしようよ、という意味もありそうですね。弓は神器であり、武器でもあります。
孔子は「60にして耳に順う」といいました。他人の意見に反発を感じず、素直に耳を傾けられるようになると説明されていましたが、私には、内鳴る神霊の聲、内奥からの魂の声が聴けるようになり、その聲に従順になることかなと思っています。
内鳴る声、内奥からの聲は、心も身体も明鏡止水のような静止状態になった時に聴こえるのものかもしれません。
この、弭の漢字を使った語に、弭化(みか)があります。人心によって知らず知らずのうちに蓄積した負のエネルギーを化して無くすこと、災刧を未然に防ぐことと理解しています。この「弭化」の為に静坐は切り離せないと感じています。
弭兵(びへい)という言葉にも弭は使われています。これは、兵(いくさ)を弭(や)める会議のことをいいます。
弓を力一杯引いた状態で溜まったエネルギーを想像します。
弓の弭(端っこの部分)の弦と弓を繋ぐ部分は、人の指が矢を放つまでエネルギーをぐっとためて耐えている部分ともいえます。
しかし、一旦指を放つと、矢は飛んでいき何かに刺さります。負のエネルギー(人心の乱れや欲心)が溜まったあと、放たれた先に命中🎯するところは、やはり、相応の負の結果かな。悪因悪果。
なので、溜まりつつある時に止める、弭が耐えられなくなるまで弓を引き切らないように自省するのも弭化に繋がる気がします。止めるか否かは人心によります。
人心が整えば、色んなことは改善されていく気もします。人心で引き起こされる戦争のような愚かなことは無くなる気がします。今は弓矢でなく、ボタンひとつで地球が吹っ飛ぶ爆弾ですが、それすら人の指一本にかかっています。
人心はそう考えたら怖いです。
神話で弓矢を放つのを止めるために、神武天皇の弓の弭(はず)に鴉(カラス)が止まったとすると、この暗示に、神武天皇から皇統を守り続ける日本🇯🇵の大きなお役目がある気がします。
戦いはしないこと。聖徳太子が唱えた、和を持って尊しとするその大和を、混乱する世界の中でも戦いは止めようよと声を上げ続けること。
こんな時代だからこそ、沢山の人心が浄化されて、清いエネルギーを大地にお返しし、様々な人災が弭化されるといいなと思います。地球のあらゆる積もり積もった負の人心を弭化するには、静かに無心の坐をする人が増えたらいいなと思います。
天皇陛下の祈りは日本と世界の安寧です。
日本は伝統を大切にし、皇統を守っています。生活様式の中や、言霊の中にも、様々な昔から大切にしてきたものが残っています。
戦いの愚かさはどの時代も怨恨となり繰り返されています。戦いの無かった大和の縄文人に、弓矢を使う狩猟民族が渡来してきたことが、日本の争いの歴史のスタートでした。
やったりやられたりの輪廻はそろそろ卒業し、全世界が平和🕊️になり、どの人も大いなるものと繋がる兄弟のように区別されない世界になるといいなと思います。