第7図は「忘牛存人(ぼうぎゅうそんじん)」です。牛のことを忘れるです。
牛を探し、牛の足跡をみつけ、牛をみつけ、飼い慣らし、仲良くなり、共に家に帰ると、牛を忘れる。なんとも潔いですね。
牛は自分を捕まえる手段であり、自分自身だから、もう明らかになったら、それに拘るのも良くないのかもですね。
ただ、私はこういう段階には追いつかず、この段階を想像して言葉を書こうとするも、自分の体験からの言葉ではない想像の文字を羅列している様にも。
十牛図は、各自、心に答えを見出しなさいということにも思えますから、まだまだ答えもわかってないのに書いているのって少し矛盾がありますが、今の心境で書いてみようと思います。
牛と人とが一つのものであるということは、まるで雲が晴れて月が現れてきたりするのに似ている。
そのひとすじの月の光は、この世にはじめて仏があらわれるずっと前から暗やみを照らしていたのだ。雲にかくれていただけである。
天体に月はあるのに、雲で見えない日もあったり、月は本来丸いのに欠けて見えたりします。ヒトの心も同じかも。本来は欠けていないのに、欠けているみたいに感じ、自己や他者の欠点を探しはじめてしまう。
牛がこの図では居なくなっています。牛は、形としては居なくても自分の中にいて旅人はゆったりとくつろいでいます。
苦労してやっと見つけ、自分が飼い慣らし、自分の中に一体となる。陰陽の太極図が丸だったり、宇宙から月を見るイメージです。写真でしか見たこと無いですけど欠けていない。
牛は自分の心でしたから、外ではなく、自分の内に始めからずっといたのです。月が宇宙ではずっと丸いまま存在しているように。
周りの景色に振り回される事なく、あるがままに、月が「見せかけ」の姿をかえながらも、実際は本来丸いように、自分の真の心も本来は丸く欠けることがありえないのかもです。
お母さんのお腹の中にいた全く穢れのない安心無垢な時や、もしかして、もっと前の生まれ出る前の更に絶対安心の状態のことかも。
もう、自分を悩ます鞭も、ギュウギュウに苦しめる縄も要らない。緩めて、許して、放ち、自分の内鳴る神様が自分とずっと共にいてくださる安心感を胸に、この世という刹那で起こる物事をみる事が出来る状態なのかもしれません。
自分が元にいた場所(空)を眺めてくつろいでいるように絵はみえます。
色んな出来事がおこらなければ、自分(牛)を探そうとも思わないし、自分のことすら分からないままで死んでいくことになります。
何ともなしに見上げる空は、もっと先の雲の向こうの欠けることのない何かを感じさせてくれるのかもです。
きちんと「還る」為に様々な事は起こるのかもしれません。牛を忘れるとは、囚われない境地への大きな一歩かもです。
【画像は十牛図、宇宙からみた月検索画像より】