仏教で禁じられているお酒も、お肉も大好きな感じがしますね。お腹に安定感があり、私の子供達が赤ちゃんの時こういうお腹のひとに安心して座っておりました。
絵は布袋さんの前に子供が現れて楽しそうに話しているようにみえます。そこには、ほのぼのとした空気が流れています。
布袋さんは随分歳上のようですけれど、そんな素振りは感じさせません。区別が無い気がします。
区別は、自分の中に生まれたら、自分を傷つけてしまうようです。こうでなければ駄目だと、自分を責め、自分が自分を受けいれないと病んでしまいます。こうでなければならないというのは、窮屈な生き方だとつくづく思います。そういう私も若いころは、頑張らないと駄目だとか熱く考えていました。
また、人と人の区別意識は、差別を生みます。日本にも世界にも様々な差別の歴史がありました。差別する側の誤った優越感と、差別された側の心に根強く残る怒りと悲しみは、差別意識がある限りは形を変えて出てきます。行き過ぎると争い、戦争にさえなります。
この世が終わったあとおそらく尋ねられる質問、
「充分学んだか、充分愛したか、充分使命を果たしたか」
も、区別や差別を取っ払うことがまず必要かもです。区別や差別があるうちは、充分どれも果たす事ができませんから。
自分の中の区別意識。これは、十牛図で牛と自分が別々に描かれていた状態のようにも思います。まずは、区別がなく、あるがままで充分だと自他を認めることから始まりです。
そして最後の絵は、牛のように、ダルマのように丸々とした布袋さんと子供。布袋さんは、身なりにこだわらず、威厳もなく、おへそをだして、まるで、幼な子のようであり、2人は親しげに話しており、そこに漂う空気は全てを包み込んで微笑ましいです。
布袋さんは悟ってはいるけれど、そんな素振りもみせません。
修行したり悟ったりした人だけが幸せになるのではなく、最後は町にでて皆と同化しながら、自分が得たもの、悟りさえも囚われない姿として描かれています。
ただ目の前の人がありのままに輝いて成長すること、そしてほんの少しの成長も我が事のように喜んであげられる、そんな素朴なヒトが布袋さんとして最後の図には描かれているようにも思いました。
空っぽのひょうたんをぶら下げて町に行き、疲れたら杖(つえ)をついて家に帰る。
仏さまの教えにもしばられず、酒屋にも魚屋にも行って、会う人みんなの心を安らかにしていくのである。
その人は胸をあらわにし、はだしになって町に入ってきた。
土にまみれ、泥をかぶりながら、その顔は笑いに満ちている。
仙人が持っているという不思議な力があるわけでもない。
ただ、枯れ木に花を咲かせるように、人々を救っていくだけだ。
長々と十牛図のお話に最後までお付き合いいただきありがとうございました。
おわり