大善人へ身魂磨き

善でありたいと思う。日々精進。感情の渦に呑み込まれそうな時もあるけれど最後には明るく静かな大海原に和合したい。

織田信長公 岐阜と金華山

2024-03-03 06:28:00 | ひとりごと

伊奈波神社をあとにして、金華山のロープウェイで頂上に上り岐阜城に行ってきました。




ロープウェイ乗り場があります岐阜公園につくと、山内一豊と千代についての話しの石碑がありました。

お二人婚礼の地とあります。




さらには、板垣退助の銅像も。土佐出身のこれらの御方の銅像は、高知城にもあるので、岐阜城と高知城にある銅像が同じで驚きです。



板垣死すとも自由は死せず

ここは板垣退助遭難の地でした。
土佐は生誕の地。

金華山の頂上、岐阜城にて、織田信長公や義父、斎藤道三について様々な説明がありました。


岐阜は、織田信長公が井ノ口と呼ばれている地を岐阜に命名したようです。中国の故事にならったもので、その説明がこちら。






岐阜の「岐」は、周の文王の時代に「岐山(きざん)」という所に都を置き、そこを拠点にして殷の国を滅亡に追い込んだ縁起のいい地名とされており、「岐山」という山は西安近くに実在する山で、この山にちなんだということになっているみたいです。


岐阜の「阜」は、孔子の生誕地、曲阜から、とあります。中国の古代の賢者の教えを信長公は学んでいたようです。


周の文王と孔子は易経を作った賢人でもあります。


また、古代中国の古典『春秋左氏伝』には、「武の七つの目的を備えた者が天下を治めるにふさわしい」とあり、「七徳の武」として、「天下布武」があります。



この「天下布武」を、信長公は自身の印章に用いたようで、信長公のイメージから、「天下を武力で平定する」というような意味で捉えられがちですが、「武」とは本来、「戈(ほこ)」(武器)と「止」から成るため、戦いを止める意味です。


この徳を持っていた戦国大名は上杉謙信かなと私的には思っています。

美濃を制するものは天下を制すと戦国時代の頃は言っていたようですね。その美濃の金華山に信長公は居城を構えます。


また、応仁の乱で荒廃した地の復興を考え、楽市楽座の制度をしいたり、要塞としての城の機能に、美意識を追加して魅せる城を造りました。
稲葉山を金華山と名前を変え、信長がつくった城は、極楽の理想郷に相応しくキリスト教を布教にきた外国人達を魅了したようです。


再建された岐阜城の屋上の天井図には、麒麟が描かれていました。信長公を描いたドラマ「麒麟がくる」を私は観ていませんが、、信長は、とても大胆で行動力のある御方だったんだろうなぁ、と感じました。



屋上階からは、鵜飼で有名な長良川を見下ろします。


昔はもっと蛇行していたのかもですね。



飼は古くから、人と鵜が意志を疎通させながら魚を捕る姿も珍重されており、信長公は、鮎を捕る鵜の使い手に、「鵜匠」の名を与え、鵜飼を保護しました。


とあります。


信長公の妻濃姫の父、斎藤道三を演じたもっくんが居ましたので一緒に写真を撮ってきました。





ミーハーおばさんですみません。。笑

この金華山を歩いてわかったのですが、全てチャートの固い岩盤で出来ています。





気づかれないほどの片隅に、大金龍大神神社とありました。
背後にチャートのゴツゴツ感!

また、先日紹介しました、金華山山中の旧伊奈波神社がありました丸山は、


信長公の義父、斎藤道三が今の場所に伊奈波神社を移したのでした。こちらも、チャートの事が紹介されていました。





金華山のチャートが、南半球の海底岩石とありますが、まるで、龍体がこねこねして、やっとこの地に落ち着き海底から地上に浮き彫りになって固まったかのようにも感じます。

こういう磁場はエネルギーが高いのかもしれませんね。




江戸時代に生きた白隠禅師も、この金華山の麓の瑞雲寺で坐禅修行をしています。

白隠禅師は禅僧の中でも、最近とても気になっています。

また近々紹介してみたいと思います。




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