伊奈波神社をあとにして、金華山のロープウェイで頂上に上り岐阜城に行ってきました。
ロープウェイ乗り場があります岐阜公園につくと、山内一豊と千代についての話しの石碑がありました。
お二人婚礼の地とあります。
さらには、板垣退助の銅像も。土佐出身のこれらの御方の銅像は、高知城にもあるので、岐阜城と高知城にある銅像が同じで驚きです。
金華山の頂上、岐阜城にて、織田信長公や義父、斎藤道三について様々な説明がありました。
岐阜は、織田信長公が井ノ口と呼ばれている地を岐阜に命名したようです。中国の故事にならったもので、その説明がこちら。
岐阜の「岐」は、周の文王の時代に「岐山(きざん)」という所に都を置き、そこを拠点にして殷の国を滅亡に追い込んだ縁起のいい地名とされており、「岐山」という山は西安近くに実在する山で、この山にちなんだということになっているみたいです。
岐阜の「阜」は、孔子の生誕地、曲阜から、とあります。中国の古代の賢者の教えを信長公は学んでいたようです。
周の文王と孔子は易経を作った賢人でもあります。
また、古代中国の古典『春秋左氏伝』には、「武の七つの目的を備えた者が天下を治めるにふさわしい」とあり、「七徳の武」として、「天下布武」があります。
この「天下布武」を、信長公は自身の印章に用いたようで、信長公のイメージから、「天下を武力で平定する」というような意味で捉えられがちですが、「武」とは本来、「戈(ほこ)」(武器)と「止」から成るため、戦いを止める意味です。
この徳を持っていた戦国大名は上杉謙信かなと私的には思っています。
美濃を制するものは天下を制すと戦国時代の頃は言っていたようですね。その美濃の金華山に信長公は居城を構えます。
再建された岐阜城の屋上の天井図には、麒麟が描かれていました。信長公を描いたドラマ「麒麟がくる」を私は観ていませんが、、信長は、とても大胆で行動力のある御方だったんだろうなぁ、と感じました。
屋上階からは、鵜飼で有名な長良川を見下ろします。
鵜飼は古くから、人と鵜が意志を疎通させながら魚を捕る姿も珍重されており、信長公は、鮎を捕る鵜の使い手に、「鵜匠」の名を与え、鵜飼を保護しました。
とあります。
この金華山を歩いてわかったのですが、全てチャートの固い岩盤で出来ています。
気づかれないほどの片隅に、大金龍大神神社とありました。
金華山のチャートが、南半球の海底岩石とありますが、まるで、龍体がこねこねして、やっとこの地に落ち着き海底から地上に浮き彫りになって固まったかのようにも感じます。
こういう磁場はエネルギーが高いのかもしれませんね。
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