竹内神社の社殿の裏手に妹といくと、光る石がありました。光るというか、太陽で光っていただけかもですが。心地よい空気に、ここがこの神社の隠された聖地かもね、、と妹と話しました。
妹
国常立太神、大己貴神、少彦名神と三柱が刻まれていました。(隣の阿留○○、、は、はっきりとはわかりませんが、おそらく天照太御神の岩戸隠れの際に八尺瓊勾玉(ヤサカニノマガタマ)を作った玉造部の祖神、玉祖命と関係があるかもです。)
因幡国風土記に、武内宿禰様は360歳の時に因幡国(鳥取県)に下向し、そこで双履(一足の靴)を残して行方知れずとなったとありました。
双履が残された鳥取県宇倍神社には、双履石が本殿裏にあるようなんですね。お隠れになる姿に、武内宿禰様のメッセージを因幡の地にある神社は残している気がします。
偽書とされた竹内古文書ですが、その中では未子が天皇になるとされています。
神武天皇も未子でした。兄3人は、日本記紀では亡くなったり、入水したり、常世に行ったりでしたが、次男、三男は生き残って歴史を繋いでいるのではないか?と思っています。
さらに、神武天皇の子供、綏靖天皇も三男です。神武天皇は末っ子に皇位を譲りたい旨を息子に生前つたえます。しかし、神武76年3月11日に崩御されると、長兄との間に皇位を争いが起こり、次男と三男は結託し、長兄を討ち、結局、次男はその後、三男を助けて、三男が天皇になり次男は神祇を掌ることとなったとされています。
太古の権力闘争が垣間見えます。
ところで、久留米市の高良大社は、平安時代には九州総社と記され、また筑後一の宮とされています。神話時代からの古社が多い九州においてなぜここが総社と称されたのか?
武内宿禰様の双履の話しが気になり調べてみると、この高良大社に辿り着きました。
双履からは、草履や、ワラジを思い、ムカデの使いという昔話を思いだしました。百足(ムカデ)は、根の国の素戔嗚尊が、義理の息子になる大国主命に試練をお与えになるときの話にもでてきます。七福神の毘沙門天(びしゃもんてん)も百足とともにえがかれます。
そして、九州の高良神社の奥宮には毘沙門天がお祀りされているようなんです。毘沙門天=ヴィシュヌ神(シヴァと並ぶインドの最高神)、ヴィシュヌ神は宇宙を維持する神です。また、武神でもあるようです。
高良大社社務所にあります御由緒には、古くはここを「高良廟」「御神廟」と称し、なんと、高良の神である武内宿祢の葬所と伝えています。
つまり、高良山信仰の原点ともいうべき聖地に坐します神は、一つの靴を残してお隠れになった武内宿禰様かな、、。。
この高良山の地は南北朝時代には、征西将軍宮懐良親王の御在所となったとの説もあり、何人もの天皇を太古に守護された武内宿禰様が、時空を超えて九州に来られた後醍醐天皇の息子の懐良親王を土地神様として守護したようにも感じます。
何故、片方の履物だけおいて武内宿禰様は雲隠れされたのか?
以前、福岡県に、三柱鳥居がある話しを書きました。この三柱鳥居の下には「磯良恵比須」という鱗状の岩(御神体)が水の下にあり、阿曇磯良のご神体と伝わる不思議な石です。
そちらの社家文書には阿曇宿禰磯良について、「神功御共シテ朝鮮二渡ス」とあり、「諡号」を「戎比古命」といったことが記録されています。神功皇后は玉を授かります。また、戎は、エビス様で日の出の神様です。
その時も、社家文書の宿禰が気になりましたが、神功皇后を武内宿禰様が助けていたことから、武内宿禰様は、阿曇宿禰磯良と関係があり、つまり、信濃の安曇氏の祖神(阿曇族)に繋がる系譜の御方かなと思いました。
阿曇磯良は「阿曇磯良丸」と呼ぶこともあり、船の名前に「丸」をつけたりもするみたいです。
古事記なんかの鰐族はワニは、丸爾、王仁、和邇とも書きます。古代豪族であり、おそらく百済系渡来人で、大和の有力な豪族として応神天皇以後7代(応神・反正・雄略・仁賢・継体・欽明・敏達)の天皇に后妃を送り出したとされています。
神功皇后が新羅の三韓征伐に行く時、武内宿禰様が、鰐族の古代渡来人だったとすれば、神功皇后をサポートするにはうってつけの人物となります。
神楽に誘われて海中より現れ、古代の女帝神功皇后に竜宮の珠を与えたという中世の伝説の神楽ですが、宮中に伝わる神楽の一つ「阿知女作法」の「阿知女(あちめ)」は阿曇または阿度部のことであるようです。
様々な点と点を結び辿る本当の御祭神や、隠されたり、置き換えられた御祭神が少しずつ顔を出してきているように感じます。
また、高良神社には、恵比須社があるようです。御祭神 事代主命、つまり、大国主命のお子様であり、国譲りをして雲隠れした神様です。
「事を知る神」として、善悪を判断する力があるとされ、一般的に「えびすさま」と称されていますが、事代主命が高良神社では神功皇后社の側に祀られているようです。
武内宿禰様は、日の出の神エビス様をお運びしたのか、縁がありそうです。
しかし、履物をひとつ残し最後はお隠れになったのは、どこか出雲国譲りを黙認した事代主神のようにも感じます。
神話は暗示が多いと思い、何が本当かなんて解らないけれど、色々な神社の言い伝えをみたり、流れの中にその当時を生きた人々の陰陽を感じます。陰の人々がいたからこそ、陽が輝く。
古代から続く人間模様は陰陽を織り込みながら、ずっと転生、転写し続けているようにも感じました。
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