今はコロナで、海外からの観光客はほぼいないですが、知り合いの方で外国人観光客への案内をしている方の話だと、コロナ前は異常なほど浅草には外国の方だらけだったとか。
異様でもあったし、風情もなかったようです。京都も然りで、外国人に人気なのはよいですが、人気とともに、静寂にこそ見出せる風情はなくなる気がします。
海で囲まれて、外国からの侵略をうまい具合にさけられた日本は、独自の文化を保ちながら、人々を惹きつける文化を守り続けてきたのだと思います。私は、日本に生まれて、日本語を母国語として幸せを感じています。
ところで、日本の文化のひとつ、盆栽を子育てにからめ今日は書いてみたいと思います。自然に木が育つ姿はそれは見事です。
木のミニチュア番が盆栽です。
盆栽は、埼玉に盆栽美術館があり、盆栽好きにはたまらない場所のようですね。わたしは、植物は沢山育てていますが、盆栽は育てていません。理由はズボラな性格ですから、手をかけないと育たない盆栽は難しい。
盆栽は、あの小さな鉢植えのなかで、松なんかのミニチュア版を作るのに、根をカットしたり、葉をカット、枝カット、ワイヤリング、肥料、と様々手をかけないといけませんし、高価なため、うまくいかないと盆栽病院に預けて治してもらう方もいるみたい。
手をかけないと綺麗に育たないのが盆栽で、そこは日本人の美意識の結集のように思います。
しかし、盆栽を子育てに置きかえると、手をかけ過ぎの過保護みたいかなぁとも思ったり。
盆栽自体はそれは芸術としては素晴らしいのですが、もしそれが子供なら、その子は「小さく」綺麗に纏まって見た目は綺麗でお利口さんだけれど、やはりケアなければ弱くて、それは自立して生きていくときには大変かも。
教育の枠について考えたとき、枠がキツすぎないほうが、むしろ良いのかなあ、と思ったりします。
規則ガチガチだと息苦しい。規則ガチガチは、この様な形に仕上げるぞと盆栽にワイヤリングするみたいに思ってしまいます。はみ出したら切る、、ような。
育むという視点は、神様が全てに望む視点の一つだと思っています。地中にどんどん根をはり、ぐんぐん伸びようとする枝を、個性と置き換えたら、そこを他人によってカットされたり、ワイヤリングされて小さく纏まるのが面白いとは思えません。
もって生まれた個の光が雨風に晒されても負けずに、転んでも、そっから根を生やしてまた立ち上がり生きていける。そんな子がたのもしいと思います。
だって、生きることはつまづいたり転んだり叩かれたりするものだから。
子育てにしても、教育にしてもワイヤリングしてないかな、根っこを大切にしてるかな、切ってないかな、水や肥料を与えすぎてないかな、と自問自答しながら、少なめくらいがちょうど良いかもです。色々模索しながら育む必要があるのかなぁ、と思ったりします。
子育てに正解はないですけどね。どの子も、個の光を輝かせて、キラキラ、のびのび、スクスク育つといいですね。
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