ところで、インドの逸話を今日は紹介します。
一人の水汲み人が住んでいました。
彼は仕事に二つの大きな壺を使っていました。
長い棒をくびにかけ、両端に一つずつ
壺を吊り下げました。
一つの壺は一か所大きくひび割れたところがありました。
もう一つには全く傷がありませんでした。
そちらの方には水がいっぱい汲まれて届けられましたが、ひび割れた方は家に着くころには水が半分しか残っていませんでした。
二年間この水汲み人は同じことを繰り返しました。傷のない壺は自分のしたことに得意げでありました。しかしひび割れた壺の方は十分でないことを恥じ、半分しか運べなかったことを惨めに思っていました。
ある日、流れのそばで、ひび割れた壺は水汲み人に、その辛い思いを語りました。
「私は自分を恥じるんです。水を半分しか家に届けられなくて、本当に申し訳ありません。私にはひび割れがあり、水がそこから漏れてしまうのです。そのため、あなたがせっかく運んできてくださっても充分な仕事をすることができませんでした。」
すると水汲み人は笑顔で答えました。
「ご主人の家に帰るとき、道端にある美しい花をみてごらん。」
その日の帰り道。ひび割れのある壺はあたりを見回しました。
「おまえの側にだけ花が咲いているのがわかるかい。反対側にはないんだよ。」
水汲み人は言いました。
「それは私がおまえのひび割れを知っていて、それを利用したんだよ。おまえが通る側の道端に種を蒔いておいて、毎日ここを通る時、水をやっていたのさ。もう二年間、私はご主人にその美しい花を摘んで、きれいに飾って差し上げているんだよ。おまえがそのようでなかったら、家を美しく飾ることはできなかったんだ・・」
ここまで
私は仕事で若者に会います。個性色々。その中でも、(見た目ではわからないけれど)配慮の必要な子達もいます。歳は親子程違うのに何故か話しかけやすいようで、慕ってくれる子もいます。
神様がこの世に創り出すものには、何一つとして無駄なものは無いと思っています。辛いものを背負っている子には言いませんが。ただ、とりとめのない話しをしながら、殻に閉じこもらないでね、自分が思うほどには気にならない人は私を含め沢山いるよ、大丈夫だよと言うと、ニコッとしてくれます。
転んでも傷ついても起き上がり歩き出せば、そこにはまた道ができるし、その道で同年代の子が全くしない経験をした辛い事も、沢山の栄養となり、きっとどこかで沢山花を咲かせるかもしれない。いや、花を咲かせなくても良いじゃない。渇いた土を潤したことには変わりないから。
ひび割れたって、ひびがあることによって、大地を喜ばせ、花を咲かせ、道行く人を癒すという真価を壺が発揮したように。
傷ついた経験をした事も、そのことや、その経験がマイナスではなく、プラスのものと変換できる力はあるとを信じて欲しいです。
身体のこと、心の事で悩み塞ぎすぎないで欲しいなぁと思います。きっと、大丈夫、辛い時は一休みすればよいだけ。
【画像はひび割れの壺より】
コメントありがとうございます!
鬼雷さんは、本当に優しきかな。