大善人へ身魂磨き

善でありたいと思う。日々精進。感情の渦に呑み込まれそうな時もあるけれど最後には明るく静かな大海原に和合したい。

炭焼き小五郎

2021-06-06 06:04:00 | 神話・物語・本から
炭の話の続きで、豊後の伝説炭焼き小五郎(真名の長者)の話を紹介します。


下記引用いたします。


昔、豊後国三重の玉田の里に藤治という子供がいました。 三歳で父に、七歳で母に死に別れ、内山の炭焼又五郎の養子 になりました。養父母がこの世を去った後は、名を小五郎と改めその跡をついで炭焼をしていました。


そのころ、奈良の都に久我大臣の娘で玉津姫(玉世)という姫がいました。美しく、優しい姫の噂は都中で知らないものはいないほどでした。ところが、年ごろになったある日、突然顔や体に黒いあざができてしまいました。


あざのため結婚することもできず、姫や家族は嘆いていましたが、ある日出会った老翁に「大和の国三輪の明神に願をかけなさい」と言われ、わらにもすがる思いで祈ることにしました。すると


満願の夜、明神様が枕元に現れ、「あなたの夫となる人は豊後の国の炭焼き小五郎です」とお告げをくださいました。姫はお告げに従い旅にでました。長く辛い旅の途中、侍女達は病に倒れ、人にさらわれ、ついに姫は1人きりになってしまいました。途方にくれて山を越えてゆくと、くずれかかったわらぶき小屋の前にたどり着きました。


小屋には顔も手も墨で汚れ、ぼろぼろの着物を着た男が住んでいました。この男こそ小五郎でした。


神様のお告げで嫁に来たという姫の言葉に、始めは戸惑った小五郎でしたが疲れ切った姫の様子を見て、嫁に迎えることにしました。お腹を空かせた姫のため、小五郎は姫から預かった砂金を片手に、里へおりていきました。


途中、小五郎はオシドリを見つけました。晩のおかずにしようと考え、砂金の入った袋を投げつけましたが、袋は淵の底に沈んでしまい、オシドリも逃がしてしまいました。


手ぶらで帰ったことに驚き泣く姫の様子を見て、小五郎は「あの光る石なら谷にゴロゴロしている」と姫を連れて谷へ行きました。なるほど、谷は砂金であふれかえっていました。そしてその淵の水で手や足を洗うと、不思議なことに姫のアザは消え、小五郎も美男子に生まれ変わりました。




ふたりはこの谷の黄金でみるみるうちに大金持ちになり、龍宮にお願いして可愛らしい女の子も授かり、幸せに暮らしました。


般若姫と名付けられた女の子は優しい長者夫妻のもとですくすくと美しい女性に育ちました。姫を嫁に、という申し出はあちらこちらからありましたが、長者夫妻は決して手放そうとしませんでした。


やがて、遠い東の国から来たという若者が長者夫妻のもとを訪れました。若者の素晴らしい笛の調べに感嘆した長者夫妻は山路と名付け、牛飼いとして雇うことになりました。山路はまじめでよく働いたので長者夫妻もすぐに気に入りました。


ある日、般若姫はひどい病に倒れました。この病を治すための難題をこなすことができそうなのは山路ただ1人でした。山路は無事事をなし終えたあかつきには、姫と結婚したいと長者夫妻に願い出、病が治るならと承諾した長者夫妻の目前で見事姫の病を平癒させました。

 実はこの若者の正体は時の欽明天皇の第四皇子、後の用明天皇でした。皇子は都にまで届く般若姫の噂を聞いて、ぜひとも后にしたいと思い、誰にも告げず、1人豊後の国を目指してやってきたのでした。若くたくましく、気高い雰囲気をもつ山路に、長者夫妻はついに結婚を許し、般若姫と山路は幸せな日々を過ごしました。

やがて子どもを身ごもり、穏やかな日々を暮らしていた2人でしたが、都から皇子を連れ戻すための使いが訪れ、皇子は都へ帰ることになりました。


別れを惜しんで皇子は旅立ち、やがて姫には女の子が生まれました。女の子なら豊後の国に残して跡を継がせなさいという皇子の言葉通り子どもを託し、般若姫は后となるため都へむかう旅に出ました。


 船団を組んで出発した般若姫一行でしたが、始めこそ天気も良く穏やかな船旅だったものの、進むにつれて嵐や奇怪な出来事にさいなまれ、多くの家臣を失ってしまいました。あるものは父を、あるものは同僚を失い、互いに嘆くさまを見て、般若姫は多いに悲しみ、心身ともに弱っていきました。


夫婦は臼杵の姫見岳に登って船団を見送りました。しかし、姫は途中で嵐に遭って姫島に上陸し、船団を整えて出帆しましたが、周防灘で再び嵐にあい、般若姫は、思い悩んだ末、ついに海に身を投げてしまいました。一度は助け出されたものの「あの山に私を埋めてください」と言い残して亡くなってしまいました。






残された家来たちは悲しみにくれながらも遺言のとおり、般若姫の墓を作って葬りました。後に般若寺としてこの菩提所は人々から参詣されるようになりました。


豊後の国に残った長者夫妻は、娘の供養のために紫雲山満月寺を建立し、丸彫の見事な磨崖仏を彫ったといわれます。




ここまで


自分の知っている炭焼き小五郎(真名の長者)の話と違う!と思われた方もいるかもです。たしかに、炭焼き小五郎(真名の長者)の話は沢山あって、細部が色々違うのです。沢山比べ読んだんですが、色々ありすぎて。違う炭焼き小五郎の話も興味深いです。用明天皇は聖徳太子の父ですから、時代は飛鳥時代となります。


磐若姫が聖徳太子の母だという話も別にはありました。聖徳太子の母は、「欽明天皇の第三皇女。 穴穂部間人皇女」と伝わっていますので、ここらへんの話については、また書きたいと思います。真実はわかりません。


炭焼きの貧乏から一転おしかけ女房のお陰で長者になった小五郎。オシドリがでてきますが、オシドリ夫婦っていうのは、こっからきたのかな?紫雲も久しぶりに出てきました。(笑)


昔話しではありますが、臼杵の磨崖仏も実際あるし、般若姫の菩提寺もあることから、実話を元にしているのは間違いなさそうです。


長くなりましたのでまた明日。


つづく


【画像は真名の長者、臼杵の磨崖仏検索画像より】


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