石仏や磨崖仏を解説してくださる方のブログを興味深く拝見しています。何故人は石に仏を彫るんだろう?と考えると、石に何ものかが宿り、それがわかる人がいるんだと思います。
空海さんは、通りがかりの石に不動明王を感得したりしています。実家が真言宗のため、空海さんは非常に親しみを覚えます。
塞の神(クナトの神)における巨岩信仰は太古の信仰ですが、たしかに神を自然に感じた縄文時代の人達が磐座や石を祈りの対象にしたのには理由が必ずある気がします。
日本は他からの宗教さえ受け入れた稀有な国です。石や磐座に神をみた縄文時代の人と、仏教を受け入れた後に、石に仏を彫った人々は、無形ではあるけど、何かしらの尊いものをそこに感得した点では違いはないのかもしれません。
何かが宿るとわかる方はよいですが、わからない大多数の人にとっては、今では石仏の方が神仏が宿っているんだとわかりやすいのかもです。
兵庫県の西宮市にあります越木岩神社は巨岩が沢山ありました。ここの磐座には『この神の鎮まる霊岩を大阪城築城のために切り出そうと、村人達の制止の懇願にかかわらず、豊臣秀吉が石工達に命じて割らせていたところ、今にも割れんとする岩の間より鶏鳴し、真白な煙が立ち昇り、その霊気に石工達は、岩諸共転げ落ち倒れ臥し、如何にしても運び出せなかった』という言い伝えがあるようです。
どこか、こちらの石を見ていると、天磐船のようにも見えました。
越木岩神社
石上神宮のホームページより
石に神が宿るという思いを持つのは、インディアンなどのアニミズム信仰とも通じます。
生きとし生けるもの、無機物にさえ全てに神の息吹がかかっていると感じる気持ちは、あるものをあるがままに愛し、自然を愛する気持ちとなり、無闇な自然破壊を阻止するようにも思いました。
出雲大神宮磐座
【最初の写真は、竹内神社】
つづく
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます